往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラム24  「進学競争③」

■ 小説に描かれた受験地獄

   大正七年(1918)に発表された久米正雄『受験生の手記』(短編集『学生時代』所収)は、高等学校の入試制度が共通試験になる以前の明治30年代が背景となっています。
 主人公の久野健吉は東北地方の中学を卒業後、一高の受験に失敗。翌年、捲土重来を期して上京、東京の姉の家に下宿して、予備校に通いながら受験に備えます。
 一つ年下の弟も、中学を学年6番という優秀な成績で卒業し、やはり一高受験のために上京します。
 弟のほうが長い時間(作中には一日十時間と)の勉強に集中し、数学もよくできます。義兄の長兄の娘澄子に思いを寄せる健吉は、彼女が弟と親しくしているのを見て猜疑と嫉妬を覚えるようになっていきます。
 四日間にわたる一高の入試が終わり、発表を見に行くと・・・

 

    私は掲示を見上げた。終りの方の三部と云ふ區劃を慌てゝ見別けると、そこのずらりと竝んだ番號に熱した眼を急速に注いだ。一二九、一二九は無かつた。私はまだ信じられなかつた。もう一度見直した。矢張り無かつた。そして尠からず慌て出した。もう一度未練に見直した。無かつた。念のため乙の方をも見た。乙の方にも一二九は無かつた。一部、二部、三部を通じて、一二九といふ番號は無かつた。かうなつて來た時、私は嘘のやうに平氣だつた。何だか無いのが當然のやうにも思つた。併しそれは一瞬だつた。次に私は俄然として私の位置を自覺した。落第だ! 何もかも駄目だ。すべてが失はれた。――さう思ふと胸の中が煮え返るやうに動顛した。
  ふと弟はと思つた。二部甲の二一六! 私は急いでそこを見渡した。すると紛れもなくそこには、弟の番號が在つた。在つた、在つた! 私は自分の眼を疑ひたかつた。 

 翌日、上野から故郷に向かった健吉は途中の山潟で下車し、暗い猪苗代湖のほとりをさまよい歩いたあげく、入水自殺をしてしまいます。

  

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■ 作品に見られる受験競争をめぐる諸相

 前回取り上げましたが、高等学校志願者の希望は一高に集中しました。
   健吉が願書を出しに行ったときに次のような場面があり、倍率の高さがうかがえます。

 古い煉瓦作りの本館の横に、名票の受附所はあつた。そこには事務員と小使とが、粗末な机を前に控へてゐた。吾々が一生の運命を踏み出す、第一關門の關守にしては、彼らは餘りに貧弱だつた。それにも拘はらず、彼らは怖ろしく見えた。小使は受驗用の寫眞を取ると、同型に揃へるために、遠慮なく厚い臺紙の端を裁ち落しながら、「はゝあ三部だね、しつかりしなくちや駄目だよ。今年は殊に三部志望が多いから、この分ぢや十五人に一人位の割になるかも知れない。去年は十二人位だつたが――」などと云つた
  私はすつかりこの男に嚇かされて了つた。

 

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(左端が東京帝大時代の久米正雄、右から二人目の芥川龍之介は英文科の同級生)


 過酷な受験勉強のストレスからか、精神に変調を来した受験生の様子も描かれています。

 最終日の歴史の試験の前に監督者が注意を言った後のことでした。

 誰かゞ向うの隅で、「くすり」と笑つた。するとそれに刺唆されて大半の人が笑ひ出した。その中に或る一人が「ひゝゝゝ」と云ふやうな妙な笑ひ聲をあげた。
  試驗官の顏には勃然たる色が浮んだ。そして再び丁寧ながら、鋭い聲がその口から出た。
 「誰です。今妙な聲を出して笑つたのは。」さう云つて彼は急にしんとした教室を見巡すと、それと覺しい机のあたりへつか/\と進み寄つた。そこには一人の青白い青年が、眉を吊らせて見守つてゐた。
 「君ですね。今笑つたのは。」試驗官は訊ねた。
 「…………」受驗生は默つて眉のあたりを白ませた。
 「君でせう。」試驗官はもう一歩追窮した。
 「…………さうです。」受驗生はやつと答へた。
 「さうですか。ぢや答案はもういゝから、こゝを出て呉れ給へ。理由はわかつてるでせう。」
  今度は誰も笑はなかつた。却つて白け渡つた沈默が、試驗場内をしんと支配した。
 「出ようと思つてゐた處でした。」受驗生はデスペレートな反抗でさう云ひながら立ち上つた。そして滿場のひつそりした視線の中で、足音高く出て行つた。
  やがて廊下のあたりでその青年が、もう一度「ひゝゝゝ」と笑ふのが聞えた。
  試驗官は殘されてあつた答案を見ながら、「ちつとも出來てやしない。今の學生は生意氣で困る。」と獨り言を云つてゐた。
  私は自分も可なりデスペレートになつてゐたので、心からその青年に同情した。寧ろその意氣を壯としたかつた。「ひゝゝゝ」と笑つた聲。その聲こそはこの受驗制度を、底から呪つた笑ひではなかつたか。私とても笑へるならさう笑ひたいのだ。滿天下の受驗生とても、皆聲を揃へてさう笑ひ度いに違ひないのだ。そして若し、現今社會の生んだ醜き畸形兒なる吾々受驗生が、聲を揃へてこの笑ひを笑つたなら、當局の人々は果して何と云ふであらう。「少しも出來てやしない。今の學生は生意氣で困る。」さう呟く事によつて果して事が濟まされるであらうか。――

 

青空文庫の原文を使わせてもらったために、旧仮名遣いに漢字も旧字体になってしまいました💦