往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラム23  「進学競争②」

■ 中学校卒業者の進路先

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 中学校を卒業した人たちはどんな進路を選んだのでしょうか。     

 上の表から、明治末にかけての10年間の推移を見ていくと、いくつか気がつくことがあります。

 ○高等学校へ「進学できた人」の比率が大きく減りました。

 ○教員(小学校の代用教員)の比率は約1.5倍に増えています。

 ○自家(農業・商業など)及びその他民間の人が倍増しています。

 ○未定(その多くはいわゆる進学浪人の比率が変わらずに約3分の一と高いままです。

*「浪人」の語が見られるようになるのは大正末期と言うことです。

ちなみに「現役」は元々軍隊用語とか。

 

 ■ エリートへの第一関門は高等学校入試

 当時の高等学校(「旧制高校」と呼ばれる)は、明治41年(1908)の時点で8校(第一=東京から第八=名古屋までの、いわゆるナンバースクールありました。

 その年の卒業者は1,269名で、20歳男子の454,330名で割りますと、在学率はなんと0.29%(345人に一人)という「レアな存在」です。卒業後は帝国大学を経て各界のエリーとなってゆく人が多く、「学歴貴族」と評されることもあるぐらいです。

 中でも第一高等学校(一高:東京大学教養学部の前身)の入学試験は、「天下の秀才」たちがこぞってめざす最難関として有名でした。

 明治40年頃の高等学校入試は「全国共通総合選抜」でした。

    第一希望は次のように一高に集中しました。なんと、高等学校志願者の約7割が一高を第一希望にしていたのです。

   一高(東京)4,117 二高(仙台)323

 三高(京都) 714  四高(金沢)206

 五高(熊本) 278   六高(岡山)268

 七高(鹿児島) 76

 竹内洋『立志・苦学・出世』講談社現代新書

 当然のことながら、一高入試は苛烈を極め、後に取り上げる予定ですが、短編小説の素材になるほどでした。

 

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明治37年一高の受験票と英語問題ーこの時期は全国共通問題、「希望の英語教育へ」ー江利川研究室ブログー、https://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man?__ysp=5rGf5Yip5bedIOaYpembhA%3D%3D

  

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(第一高等学校合格者氏名・族籍の記された官報、明治42年8月6日官報7835号)

 当時、高等学校の入試は七月に行われていました。

 三月に中学校を卒業した地方の生徒の多くは、受験前の数ヶ月の間、東京の予備校に在籍して「最後の追い込み」をかけました。

 兵庫県の姫路中学校を卒業した和辻哲郎(哲学者)も『自叙伝の試み』の中で、明治39年(1906)4月に上京し、7月上旬の入試までの中央大学の予備校に入ったと記しています。