前回の「コラム9」で少しふれましたが、「学力優秀でありながら中学校進学がかなわなかった」主人公が出てくる小説作品と言えば、なんと言っても山本有三『路傍の石』であろうと思われます。
ただ、若い人たちにはそれほど知られてないかも知れませんので、簡単な粗筋を。
愛川吾一は貧しい家庭に育ち、小学校を出ると呉服屋へ奉公に出される。父・庄吾は武士だった昔の習慣からか働くことを嫌い、母おれんが封筒貼りや呉服屋の仕立物などをして生計をたてていた。吾一は中学進学を希望していたが、母の苦労を見てあきらめる。その後、下宿屋の小僧、おとむらいかせぎ、文選見習工などの職を転々とする生活を通して、社会の矛盾を感じ、悩みながら成長していく。
(「あらすじ300文字」で味わう日本の名作文学、 https://matome.naver.jp/odai/2135252524944807001/2135252889345208103)
作者自身は否定していたということですが、吾一少年を取り巻く状況と山本有三(本名:勇造)氏のそれには大いに類似するところがあります。いわゆる自伝的要素が十分にあります。
(栃木尋常高等小学校卒業時、後列右から4人目)
(年譜)
1887(明治20) 7月23日、呉服商・山本元吉の長男として、下都賀郡栃木町(現栃木市)に生まれる。
1894(明治27) 栃木尋常小学校に入学。
1898(明治31) 尋常小学校卒業。栃木高等小学校に入学。
1902(明治35) 高等小学校卒業。東京浅草駒形町の呉服店・伊勢福に奉公に出される。 1903(明治36) 奉公先を逃げ出して郷里の家に帰り、家業を手伝う。
1905(明治38) 上京して神田正則英語学校に入学。
1906(明治39) 東京中学校の補欠試験を受け、同校5年級に編入される。
1907(明治40) 東京中学校卒業。第六高等学校に合格するが、父が死去したために入学を断念。
1909(明治42) 再度、高校の入試を受験し、一高文科に入学。同クラスに近衛文麿、土屋文明らがいた。
1912(明治45・大正元) 一高二年修了。東京帝国大学独文科選科に入学。
1914(大正3) 豊島与志雄、菊池寛、芥川龍之介、久米正雄らと第三次「新思潮」を興す。
1915(大正4) 東大独文科を卒業。
1917(大正6) 舞台協会の舞台監督となる。結婚したがまもなく離婚。
早稲田大学の独語講師となる。
1919(大正8) 英文学者・本田増次郎の長女、本田はなと結婚。
1923(大正12) 早大講師を辞任。
1924(大正13) 「演劇新潮」を創刊。
1926(大正15・昭和元) 菊池寛、芥川龍之介らと文芸家協会を作る。
1932(昭和7) 明治大学に文芸科が創設され、初代科長となる。
1935(昭和10) 「真実一路」を主婦之友に掲載。
1937(昭和12) 「路傍の石」を朝日新聞に連載。
1941(昭和16) 帝国芸術院会員に推挙される
1946(昭和21) 貴族院議員に勅選される
1947(昭和22) 参議院議員全国区に第9位で当選
1960(昭和35) 栃木市名誉市民に推挙される
1965(昭和40) 第25回文化勲章を授与される
1972(昭和47) 日本近代文学館顧問に推挙される
1974(昭和49) 1月11日、86歳の生涯を閉じる
(山本有三ふるさと記念館http://www.cc9.ne.jp/~yamamotoyuuzou/top.html)
尋常小学校4か年、高等小学校時代4か年を通して、終始首席を維持し続けた勇造少年でしたが、父の反対で中学進学がかないません。
この父は元宇都宮藩士(足軽の小頭)でしたが、維新後に裁判所書記などをした後、苦労の末、外商を主とした呉服業を栃木町で営んだということです。
家庭は一人っ子の勇造を当時珍しい幼稚園に入れたり、小学校時代には漢学塾に通わせたりするぐらいで、決して貧しくはありませんでした。
父は息子に『学問ノススメ』を読ませたり、雑誌「少年世界」の購読を許すなど、教育や学問に理解があったはずです。ところが、中学進学に際しては、「商人として生きていくのに学問は無用」という考えからでしょうか、断固反対し続けたのでした。
東京での丁稚奉公を経て、明治38年(1905)に再び上京して入学したのが、神田の正則英語学校でした。
この学校は、明治29年(1896)斎藤秀三郎が創設。正則英語学を教え、英語を活用できる人材養成を目的としていました。
(正則英語学校、正則学園高等学校ホームページより)
「正則」という校名は、明治時代の英語教育が旧制高等学校入学を目的とした「詰め込み式の変則」であったことに対して、「正則な英語教育」を行うというところから付けられました。(現在の正則学園高等学校の前身)
続いて五年級に編入した東京中学校というのは、明治26年(1893)創設の東京数学院尋常中学部が、明治32年(1899)に改称された学校でした。
当ブログ1月24日の記事「坊っちゃんの学校歴ーある私立の中学校ー」で取り上げた、あの「坊っちゃんの母校」なのです。
明治時代の私立中学校の実態を分析した武石典史氏は、「入学者の経歴は他の中学校からの転校生、各種学校からの転入生など、バラエティに富んでいた」(「明治後期東京における私立中学校の機能」)と述べています。
正則英語学校で一年間学んだだけで、翌年には五年級に編入ですから、やはり勇造は相当に優秀な生徒だったことがわかります。
(東京中学校卒業時に母ナカと、『新潮日本文学アルバム 山本有三』より)
ちなみに、同中学を卒業する明治40年には20歳を迎え、徴兵検査を受けなければなりませんでしたが、強度の近視のため不合格となりました。
(昭和13年:1938、日活制作『路傍の石』より、htttp://www.nikkatsu.com/movie/13658.html)
吾一少年にとっての次野先生のような存在が実在したのかどうかはわかりません。しかし、飛び切り優れた素質と強い向学心のあるところに道が開けました。若いころの苦学経験が後の作風、ひいては政治家としての生き方にも大きな影響を及ぼしたと言えるのではないでしょうか。 .