往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

16  「何だ地方税の癖に」 その1「祝勝会」

   祝勝会

 祝勝会で学校は御休みだ。練兵場(れんぺいば)で式があるというので、狸は生徒を引率して参列しなくてはならない。おれも職員の一人として一所にくっついて行くんだ。(中略)
    何だか先鋒(せんぽう)が急にがやがや騒ぎ出した。同時に列はぴたりと留まる。変だから、列を右へはずして、向うを見ると、大手町を突き当って薬師町へ曲がる角(かど)の所で、行き詰ったぎり、押し返したり、押し返されたりして揉み合っている。前方から静かに静かにと声を涸(か)らして来た体操教師に何ですと聞くと、曲り角で中学校と師範学校が衝突したんだという。
    中学と師範とはどこの県下でも犬と猿のように仲がわるいそうだ。なぜだかわからないが、まるで気風が合わない。何かあると喧嘩をする。大方狭い田舎で退屈だから、暇潰(ひまつぶ)しにやる仕事なんだろう。おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に馳け出して行った。すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税の癖に、引き込めと、怒鳴ってる。後ろからは押せ押せと大きな声を出す。おれは邪魔になる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとした時に、前へ!という高く鋭い号令が聞こえたと思ったら師範学校の方は粛々として進行を始めた。先を争った衝突は、折合(おりあい)がついたには相違ないが、つまり中学校が一歩を譲ったのである。資格からいうと師範学校の方が上だそうだ。(十)

 松山に明治十七年(一八八四)創設された歩兵第二十二連隊は、日清戦争に出征し、明治二十八年六月下旬から七月下旬にかけて、幾度か凱旋をしています。(荒正人『増補改訂漱石研究年表』集英社、一九八四) 

 作中の「祝勝会」は、日露戦争のそれのように描かれていますが、実際は漱石が在任中に体験した日清戦争帰還松山歓迎式を元にしたものであることはよく知られています。
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(歩兵第22連隊日露戦勝記念式https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/37730721.html)


    中学生と師範学校生の衝突
についても、漱石在任中に実際に起こったことで、地元の「海南新聞」(現在の「愛媛新聞」の前身の一つ)、明治二十八(一八九五)年十二月四日の第四面に次のような記事があります。

 一昨二日午後十時過ぎの事なりとか。本県尋常師範学校及び尋常中学校の生徒は何れも後備第十九大隊朝鮮守備隊帰着に付き、歓迎として三津口停車場に赴き、其の帰途萱町の入口に於いて、如何なる原因にや両校生徒が喧嘩を始め、田面の土地取りて投げ合い、容易ならぬ事に至らんとする有様なりしが、教員及び松山警察署長林公平氏巡査数名等にて之を取り鎮めたりといふ。

 

    さて、日露戦争ですが、明治三十八(一九○五)年一月の「旅順陥落」に際しては、国中が祝勝ムード一色となり、各地で連日のように祝賀行事が行われました。
 

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門司駅近くの凱旋門

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 中学校も例外ではありませんでした。例えば東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高等学校)の五十年史には年表に次のような記述があります。

一月   ○旅順陥落につき賀表を奉呈す。
六月二日 ○日本海々戦々勝祝賀式を挙行す。式後職員生徒一同二重橋の廣場に整列して大元帥陛下の萬歳を三唱し奉る。

八日 學校長は宮中に賀表を奉呈し、帝国聯合艦隊司令長官東郷平八郎に感謝状を贈る。 
 『東京府立第一中學校創立五十年史』 (東京府立第一中學校, 昭和四年)

「賀表」・・・国家の慶事に際して、国民が天皇に対して祝意を表した文を奉ること。

 また、中には群馬県立高崎中学校(現在の県立高崎高等学校)のように「旅順陥落祝勝発火演習」を行う学校もありました。

「発火演習」・・・銃砲に火薬だけをこめ、実弾は使わずに行う射撃演習のこと。