■外国人教師の増加
明治三十二年(1899)、中学校令が全面改正され、従来の尋常中学校は「中学校」に改称されました。これ以降、三十年代の後半にかけて中学校の増設が続きます。
外国人教師の数も明治三十四年(1901)に全国で23名(官公立19・私立4)であったものが、次のように次第に増加していきました。
明治三十五年(1902) 34(官公立23・私立11)
四十年(1907) 61
大正 二年(1913) 79
四年(1915) 82(官公立53・私立29 *この年がピーク)
(明治二十七年:1894、神田美土代町に建てられた東京YMCAの会館)
■外国人教師の供給ルート
既に明治二十年代の尋常中学校の時代から、各県では単独で地元の宣教師などに依頼、英語授業において日本人教師の補助的な役割を果たしてもらっていました。
文部省でも早くから外国人教師の確保に向けた努力をしていましたが、東京YMCAに対する要請がきっかけになり、YMCA側でも本格的な取り組みが始まりました。
それは、北米YMCAが組織した海外教師派遣委員会(Foreign English Committee)という名称で、アメリカ、イギリス、カナダの大学を出た青年を日本に派遣しようという運動を展開しました。
全期間(明治二十二年:1889~昭和三年:1928)を通して、約三百名の青年が来日し、主に地方の中学校に勤務しました。
これらのYMCAルートで来日した教師は「青年会英語教師」と呼ばれ、全国の外国人教師の相当な割合を占めていたと言われています。
* YMCAは、Young Men's Christian Associationの略語で、日本語では「キリスト教青年会」です。当時「青年」という言葉はなく、「Young Men」を和訳するために、創立者の一人である小崎弘道が、漢詩「唐詩選」にある「青雲のごとく志を高くもつ」をヒントに造り出しました。その後「青年」は、日本だけでなく、中国でも使われる言葉になりました。(東京YMCAホームページ、https://tokyo.ymca.or.jp/about/history.html)