往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

15  その2「なぜ日向の延岡なのか?」

    宮崎県延岡市のホームページには「延岡は、ここじゃが!こんげなまちじゃが!」という副題があり、当市の紹介がされています。

 

 

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 延岡市は、東九州に位置し、九州山地を背に、清流五ヶ瀬川貫流し、日向灘に面した、産業と歴史と文化とスポーツが息づく「市民力・地域力・都市力が躍動するまち」で、(中略)歴史をさかのぼれば、江戸時代には、高橋、有馬、三浦、牧野、内藤の五氏の藩主が入れ代わり移封された延岡藩の城下町で、明治時代に入ると、夏目漱石の青春小説『坊ちゃん(ママ)』で、「うらなり君」の左遷される赴任地として「猿と人とが半々に住んでる」「山の中も山の中も大変な山の中」として、ユーモラスに紹介されていると言えば、「ああっ、あの延岡か!」と合点がいく方もいるのではないでしょうか。(以下略、傍線筆者)
 “延岡市の紹介: 「延岡は、ここじゃが! こんげなまちじゃが!」”

http://www.city.nobeoka.miyazaki.jp/ (参照 二○一九・一・八)

  作品が発表されてから百十年余りが経過するというのに、『坊っちゃん』の持つ影響力の大きさは、流石(さすが)と言うほかはありません。
 それにしても、なぜ「うらなり先生」の転勤先は「日向の延岡」なのでしょうか。
 これについて、宮崎大学名誉教授の菅邦男氏は、「夏目漱石『坊つちやん』―延岡は何故『うらなり』の転勤先なのか―」(『社会文学』第三十一号、平成二十二年・二○一○)において、延岡の地と西南戦争及び西郷隆盛との関係に着目をした考察をしています。要点をまとめると次のようになります。

延岡の地は、和田越の決戦に敗れた西郷隆盛率いる薩軍が実質的に敗北・消滅したところであった。厳重な政府軍の包囲網を脱するために、薩軍が可愛岳(えのだけ)突破を敢行したことは、当時広く世間に知られていた。
西南戦争にかかわった人物のうち、漱石西郷と乃木希典に格別の好意と信頼を示していることが、その著述や講演などからよくうかがえる。
③「うらなり」の送別会で「野だ」が歌った「欣舞節(きんぶぶし)」(「日清談判破裂して~」)の歌中に西郷が登場するが、その歌詞は征韓論に破れた西郷を思慕するものとなっており、これも延岡が西南戦争との関係で設定されたものと考えられる。
④上記①~③などから、西郷軍壊滅の地であり、風俗純朴な延岡こそが、「聖人うらなり君」の落ち行く先として最もふさわしかった。

 松山の地を一年で去った後、明治二十九(一八九六)年四月、第五高等学校に赴任し、ロンドン留学までの四年あまりを熊本で暮らした漱石ですから、宮崎県北部に位置する延岡の地名は、まだ記憶に新しいところであったことでしょう。
 ちなみに、漱石の松山在任中には延岡に中学校はまだ創設されていませんでした。
 

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   歌人若山牧水(本名:繁,明治十八年~昭和三年、一八八五~一九二八)が第一期生として入学した宮崎県立延岡中学校(現在の宮崎県立延岡高等学校)が設立されたのは、明治三十二年(一八九九)のことでした。

 

 延岡は日向灘に面した町であり、決して「大変な山の中」ではありません。

 漱石は、転勤ルートも含めてなぜそのように表現したのでしょうか。これについても論考があります。

伊能秀明「推理考証/夏目漱石坊っちゃん」 うらなり先生の延岡転勤ルート」

http://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/18670/1/toshokankiyo_21_109.pdf)