往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

1 その2「物理学校」

 降る雪や明治は遠くなりにけり

  中村草田男(明治34年~昭和58年:1901~1983年)

 これは昭和6年(1931)の句です。雪が降りしきる中、20年振りに母校の小学校付近を歩いていたときに浮かんだ句だということです。

   句が詠まれてから88年が経過し、本ブログで扱う「中学校=旧制中学校」最後の卒業生も、ここ2~3年のうちに卒寿(90歳)を迎えようとしています。

   今年5月に元号が変わると、「明治」は更に一層遠くなるのではないでしょうか。

 本ブログをご覧いただく方々には、お節介かも知れませんが、ご参考までに文部科学省のホームページから、明治33年(1900)の学校系統図を貼り付けておきました。坊っちゃんが中学校に在学の頃です。まだ、小学校は4年制でした。図中に中学校は太く描かれていますが、おそらく1%程度の進学率だったかと思われます。

 とにかく、当時の中学生というのは、現在の難関国立大生に匹敵するようなエリート(候補生)だったということを念頭に置いていただければ幸いです。
   

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  物理学校

  

 おれは六百円の使用法について寐(ね)ながら考えた。商買をしたって面倒くさくって旨く出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。それからどこの学校へ這入(はい)ろうと考えたが、学問は生来(しようらい)どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とかいうものは真平(まつぴら)御免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌(きらい)なものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。(一)

  

    この「物理学校」というのは、東京物理学校(現在の東京理科大学)のことです。戦前は、中等学校の数学や理科の教員を養成する学校として、よく知られていました。
 近年では「坊っちゃん科学賞」を制定したり、創立百二十五周年を記念したイメージキャラクター「坊っちゃん」(サブキャラクターは「マドンナちゃん」)を誕生させたりして、「坊っちゃんの母校」であることをアピールしています。
 ところで、「規則書をもらってすぐ入学の手続をしてしまった」とあります。この学校には、入学試験はなかったのでしょうか。
 東京理科大学ホームページ「学校法人東京理科大学の沿革」(www.tus.ac.jp/documents/pdf/h22/wp22)によれば、明治三十五年(一九○二)当時の入学資格は「中学校卒業程度、別科は高等小学校卒業程度、予科は満十四歳以上で数学を解するもの」とあります。

 また、その頃、上級学校を目指す学生向けに出版されていた『東京遊学案内』は、この学校について次のように紹介しています。

 

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東京物理学校(神田区小川町1番地)

 本校は、理学の普及を助けんが為め、数学、重学 、測量、物理学及化学を教ふる所とす。修業年限は三カ年にして、学科課程は左の如し。
 算術、代数、幾何、三角、重学、解析幾何、微分積分、物理学、化学、実験学
 授業時間は毎科一時間半年、毎夕二科若しくは三科を課す。入学期は二月、及び九月とす。
 入学する者は年齢十四以上にして、略(ほ)ぼ算術を解し、筆記に差し支えなきを要す。(以下略)
 『明治三十五年東京遊学案内』

(少年園編纂、内外出版協会、一九○二年、傍線は筆者) 

   やはり、入学試験はなかったのですね。でも、この頃、物理学校のような私立の各種学校では、珍しいことではありませんでした。  
 なお、「遊学案内」では、授業は夜間という記述になっていますが、実際は既に昼間部も開設されていました。
 坊っちゃんには、三年間で六百円という潤沢な学費・生活費があったわけですから、当然のことながら昼間部の生徒であったことでしょう。