往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

コラム3 「席次」

 「席次」には、「会合・儀式などでの座席の順序、席順」とともに「成績・地位などの順位」という意味があります。
 明治十八年(一八八五)までの小学校は「学年制」ではなく、「等級制」を採用していました。毎学期、毎学年末に試験を行って、その成績順に教室での席を決めていたということです。
 元々は勉強の督励の意味で始まったこの方法ですが、次第にその弊害が指摘され、文部省は明治二十七年(一八九四)、ついに訓令を出して禁止をしました。
 ところが、中学校ではそうはいかなかったようで、たとえば、『明治三十九年愛媛県立松山中学校一覧』の「教室規則」は次のようになっています。

第三十條 
 教室ニ於ケル生徒ノ席次ハ其ノ成績ニヨリ該学級主任教官ノ指定スル所ニ従ヒ猥(みだ)リニ変更スヘカラス                             

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 一般的に、首位の生徒は最後列窓側に、最下位の者は、最前列(教卓の前でしょうか)に座るように指定されました。ですから、それぞれの生徒が座っている席の位置を見れば、その生徒の学級内の順位が分かるということになります。
   中には、福島県立相馬中学校のように、名札、下駄箱の並び、そして、なんと、通学時の列まで成績順という徹底した学校もあったというのですから、恐れ入ります。(斉藤利彦『試験と競争の学校史』二○一一年、講談社学術文庫
 また、校規違反をおかした生徒には、「貶席(ほうせき)」と言って、罰の一つとして、後方の席から「最末席」(最前列)への強制移動いう処置もありました。
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(「沖縄県立中学校生徒学年試験成績表 明治41年4月」、国立国会図書館デジタルコレクションより。上の二段は「行状」「修身」とあります。百点法で、どうやって点数をつけたのでしょうか。下には「族籍」の欄まであります。)
 

 成績の公表ということも、当然のように行われました。それは、学年末に全生徒の全教科及び操行の評点を印刷した冊子を保護者に送付するというものでした。
 座席の指定にせよ成績の公表にせよ、根本には、これが生徒たちの勉学の意欲や競争心を高めるのに有効な方法だという発想がありました。管理と競争が一体化していたわけです。 
 しかし、成績の公表については、生徒たちの不満や反発が大きく、同盟休校(ストライキ)の一因となった学校もありました。「過ぎたるは及ばざるが如し」ということでしょうか。

 

# 昭和40年代の前半ぐらいまでの地方の普通科高校では、模擬試験の順位を一覧表にして校内に掲示するところが結構あったと聞いたことがあります。大学入試の合格校も同じように校内に掲示していたとか。

   「教育的配慮」とか「個人情報保護」などという言葉はなかったのですかね!?