■ 外国人教師の実態
前回取り上げたYMCAルートで来日した外国人教師は、どんな人たちだったのでしょうか。
出身国としてはアメリカがほとんどを占め、イギリスやカナダは少数でした。
年齢は当初20代よりも30代が多かったのですが、次第に20代がほとんどになっていきました。
学歴としては、バチェラー・オブ・アーツ(Bachelor of Arts=文学士号)、マスター‐オブ‐アーツ(Master of Arts=文学修士号)を持つ人が多かったようです。
■ 外国人教師による授業
外国人教師のほとんどは日本語が話せないために、教室へは日本人教師が付き添い、主として発音や会話の指導に当たりました。
担当する学年は低学年が多く、熱心な発音指導が印象的だったという卒業生の回想が多く見られます。
高学年の場合は、高等学校や専門学校への進学を意識して、訳読中心の授業が中心であったために、外国人教師の授業は比較的少なかったようです。
■ 学校外での活動
外国人教師の多くは、自宅で同僚教師や生徒を招いて、自宅をサロンとして提供することがよくありました。時には英語科教師の研究会も行いました。
また、YMCAルートで来日していたために、自宅でバイブルクラスを開くこともよくありました。
嘱託教員といえども、公立学校の教師が宗教活動をするということは、現代では許されないことです。しかし、彼らの採用条件の中には「授業以外でも生徒が希望すれば、自由に聖書を教えてもよい」という一項があったために、学校当局も大目に見ていたのではないかと思われます。
地方にあっては西洋の文化にふれる貴重な機会でした。多感な時期にある中学生の精神形成に大きな影響を与えたことが想像されます。
(英語聖書研究会、https://www.yokohamaymca.ac.jp/about/)
■ W・M・ヴォーリズのこと
北米YMCAルートで中等学校の外国人教師として来日したアメリカ人の中で、今もその名が広く知られているのは、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年 - 1964年)だと思われます。
ヴォーリズは、明治三十七年(1904)にコロラドカレッジ哲学科を卒業、翌三十八年(1905)、滋賀県立商業学校(現在の県立八幡商業高等学校)の外国人教師として24歳で来日しました。
宗教上の問題から2年で解職されてしまいましたが、その後も近江八幡にとどまり、教会や学校など多くの建物を手がけた著名な建築家です。近江兄弟社(メンタームで有名)の創業者の一人としても知られ、日本の近代史に大きな足跡を残した人です。
(25歳、来日の頃か)
■ 外国人教師減少へ
明治後期には、日露戦勝、国粋主義の台頭に伴って反外国・反キリスト教の感情が高まりました。
大正初期をピークに、外国人教師の数が減少に転じた理由として、上のような背景に加えて、次のようなことが言われています。
その一つは、外国人教師の雇用に多額の経費を要したことでした。一般の教諭に比べ、2~5倍の給与が各府県の教育財政を圧迫しました。
また、学校や生徒たちの要求する英語学力が、上級学校進学を前提にした「訳読力」だったことが挙げられます。外国人教師による発音・会話中心の授業で育成される「実用的な」英語学力は、それほど重視されなくなっていったのでした。