往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

コラム19  「明治のトンデモ校則①」

  「弁当の立ち食い」

 ここ数年、教育界でも「ブラック」という言葉をよく聞くようになりました。例えば、教師の長時間労働、 長時間の厳しい練習で教師や生徒を追い詰めるブラック部活、そして「ブラック校則」

   いわば当然のことなのでしょうが、明治時代は「ブラックな校則(規則)」「ブラックな風習(伝統)」が結構ありました。

    本論である「『坊っちゃん』に見る~」からは少し逸れるのですが、これまで色々と調べている中で見つけた「明治版・ブラック規則」あるいは「トンデモ校則」とでもいうべきものを、いくつか紹介してみたいと思います。

 その①は兵庫県立神戸中学校(明治29年:1896創立、後に第一神戸中学校、通称「神戸一中」、現在の県立神戸高等学校)の「弁当立ち食い」です。別に校則に規定されていたわけではないようですから、伝統という不文律なのでしょうか。

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(現在の神戸高校)

 『神戸高校百年史』(平成9年:1997)には次のように記されています。

 一中生と切っても切れないものに、カーキ色の制服・白風呂敷と運動場での弁当の立ち食いがある。とくにカーキ色の制服と弁当の立食の二つは、卒業生の多くが誇りとともに懐かしく思い出すことでもある。立ち食いとはたんに立って食べたというものではなく、昼食時には全員が必ず運動場に出て、立食せねばならなかったことをいう。雨天の場合は控え場で、雨でなければ曇天であろうが、雪が積もっておろうが、運動場に出て立って食べねばならなかった。教室に残って食事をすることは、上級生の見回りが来て許さなかった。食べながらボールを蹴ってサッカーの真似事をするものも多かった。砂埃をよけるため、弁当箱を立てて食べることから「帆立て貝式弁当」と称した。
(中略)
 鶴崎(久米一、初代校長、長崎英語学校を経て札幌農学校卒業)は北海道の開拓民の習慣を一中に取り入れたと聞いている卒業生が少なからずいる。      

 これは大正末期のことですが、ソニーの創業者の一人である井深大(いぶかまさる・明治41年~平成9年:1908~1997)氏の伝記『夢を実らせた空想科学少年―ソニーを築いた井深大』(手島悠介 佼成出版社 1986)という児童向けの書物の中に、この「弁当立ち食い」の描写があります。

 それに、この中学には、もっとおかしな規則がありました。
   天下の秀才たちは、教室の机を勉強以外の事に使わせてもらえません。弁当を開いてもいけないのです。

   ですから生徒たちは、運動場へいって、弁当を立ち食いするのでした。
   雨の日は、雨天体操場に入れてもらっての立ち食いです。
  そして、お茶のほしい人は、小使室(用務員室)へいってもらうのですから、神戸一中の卒業生たちは、「おかげで、みんな早食いになってしまった。」と、嘆(なげ)いているそうです。
   先に紹介した一文で、井深大は、
  「(神戸一中には)教育の本物があったような気がして、たまらなくなつかしい。」
と書いていますが、こうした中学の校風に、その頃の大は、いささかの反発を覚えていたのではないでしょうか。
   大は合理的にそして自由に、物事を考える事のできる少年でした。

 

 

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(挿絵 依光隆http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki4/ibuka0.htm

  『兵庫県教育史』(昭和38年:1963)では、「弁当立ち食い」に象徴されるような同校の教育実態を「神戸中学校の硬教育」という見出しで論じています。
 

   かの神戸中学校の名物であった昼弁当立食の習慣も、質素剛健の気風を養成するために考え出されたものであった。(中略)当時の新聞など、『神戸中学は壮士の養成所なり』と批判的な記事をかかげたこともあったという。(第四章・第三節「中学校の整備と農学校の設立」)