地味でオタッキーな本なので、思い切り安い価格設定をしました(笑)
■ 地方の中学校の進学対策
これまでに取り上げた『受験生の手記』の久野健吉や和辻哲郎(現役生)の例などは、短期間でも東京の予備校に通うことの出来た、いわば恵まれた境遇にある受験生でした。
そうした機会に恵まれない地方の浪人生には、中学校に補習科というのが設けられていました。
補習科は「中学校令」において規定されたものですが、現在に至るまで 島根、岡山、香川、宮崎の各県では高校に附設され、存続しています。
『長崎の青春ー旧制中学校・高等女学校の生活誌ー』(塚野克己)には、長崎県における補習科設置の背景が次のように述べられています。
一高を頂点とした旧制高校への合格者数は本県の場合不振であった。高校総定員二千人。一県あたり四、五十人は入ってもよい計算なのに、僅かに明治期は平均して19人の合格者。かつての教育大県の成績としては寂しい数字であった。各中学は競って対策を練った。授業時数の増加、補習授業や県下一斉競争試験の実施等々。その成果か、大正期に入ると合格者数が伸びた。
(長崎県全体の高等学校入学者数、合計19名、明治42年『全国中学校ニ関スル諸調査』より)
(同上、東京の場合)
一例として明治43年の愛媛県立松山中学校「補習科規則」から主な内容を挙げてみます。
・学科ー国語漢文、英語、数学
・授業時間ー放課後の2時間
・服装ー本校生徒の服装に準じること
・帽子ー白線三本を巻くこと
一般的に、高等学校合格者数の多寡が、いわゆる「進学校」であるかどうかの目安とされました。
各中学校は学校の威信をかけて、競争に邁進するようになっていきます。
中学生向けの雑誌には「進学校番付」があったと言いますから、現在も週刊誌などが高校ランキングを載せていますが、その素地は既に明治の時代からあったのですね。
■ 平成の補習科は?
10年近く前の朝日新聞の記事です。
「高校補習科、存廃に揺れる 浪人中の卒業生に受験指導」
「高校補習科」。こんな名称の教育機関が中国、四国、九州の5県にある。PTAや同窓会などが運営する形で公立高校に併設され、浪人中の卒業生らを引き受けて受験勉強を指導する独特の課程だ。大都市から離れ、予備校も少ない地域で高校の教員がボランティア的に指導してきた歴史をもつが、近年は廃止の動きが進んでいる。
きょういく特報部2009 (2009年12月14日)
10年が経過して、今はどうなっているのでしょうか。
下は岡山県立岡山朝日高等学校(旧制岡山一中)補習科(楠友館)の授業風景。
(http://www.asahi.okayama-c.ed.jp/hosyuuka/hosyuuka-index.htm)
■『受験生の手記』に見られる受験競争をめぐる諸相(つづき)
○予備校通いと参考書
コラム23の最後に取り上げたことですが、3月に中学校を卒業した受験生は上京して、7月の入試まで予備校に通うということがよくありました。主人公の健吉もその一人です。(高等学校と帝国大学の七月入試、九月入学というパターンは大正9年まで続きました。)
(一高入試当日、服装が時代と季節を感じさせます。竹内洋『立志・苦学・出世』より)
南日の英文解釋法は、大抵の人が少くとも五囘は讀み返すと云ふから、もうそろ/\讀み始めなければなるまい。去年はあれを一囘、それもやつと讀んだだけだつた。
けれども閑暇だから、豫備校へだけは行くことにした。そこでの講義は、實力をつけると云ふよりも、如何に能力を活用すべきかを教へる、what よりも寧ろ how の方に重きを置いた。學校としては實に變則なものだと思つた。併し講義は面白かつた。漫然と聞き流してゐても面白かつた。豫備校は遊び半分に行くべき處だ。それでも十分效用はある。知らず識らず受驗生の頭腦を刺戟する、狡猾にする、そして最もよい事には、動もすれば不規則になり易い受驗生生活に、先づ學校らしい體裁を備へた、一つの規律を與へる機關となる。――兎に角私に取つては、豫備校は一つのいゝ暇潰し場所でなければならなかつた。
「閑暇だから、豫備校へだけは行くことにした」と暢気なことを言っていられる身分ではないと思うのですが、それはさておき、この予備校について。
和辻哲郎も『自叙伝の試み』の中で「中央大学の予備校」と言っていましたが、もちろんこれは「中央大学に入るための予備校」ではなく、「中央大学が経営する予備校」の意味です。
明治40年頃の神田は「予備校の街」と評されたほど、多くの予備校がありました。中央大学のみならず、日本大学、明治大学、東洋大学、法政大学なども予備校を経営していました。
官立学校をめざす受験生のための学校を私立大学が経営し、講師の多くも官立学校教員という、変則的で矛盾した状況が生じていたのです。理由の第一は、私立大学の慢性的な財源難であったと言われています。
引用文のはじめに「南日の英文解釋法は、大抵の人が少くとも五囘は讀み返すと云ふ」とあります。
この「南日」は南日恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年~ 昭和3年:1871~1928、明治から大正にかけての英語教育者。旧制富山高等学校初代校長)のことで、『英文解釈法』(明治38年:1905)や「和文英訳法」(大正3年:1914)は、当時最も人気のあった英語のベストセラー参考書でした。
○受験生の神経衰弱
あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴れて落着く迄もなく、机に噛りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々飜してゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。(中略)
弟は私には平氣で自分の勉強をぐん/\續けてゐる。それを見てゐると、私は嫉妬に似た恐怖さへ感ずる。何だか弟と同じ室にゐるのが、私には厭で堪らなくなつて來た。
ひよつとすると私は神經衰弱かも知れない。――
蒸し暑い時期に姉の家とは言え、慣れない環境での受験勉強、そこへ優秀な弟の上京とくれば、ナイーブな主人公が心身に不調を感じるのも無理からぬことではあります。
今で言うところの「受験うつ」でしょうか。この「神経衰弱」とか「ノイローゼ」などの言葉も最近ではすっかり耳にしなくなりましたね。
こうした精神的な疾患に対して、明治時代には「脳病薬」ということで、民間薬が発売されていました。
「記憶力増進」を謳った広告が受験雑誌などによく掲載されていたということです。
(脳病薬の代表的なもの、明治41年の雑誌掲載広告)
■ 小説に描かれた受験地獄
大正七年(1918)に発表された久米正雄『受験生の手記』(短編集『学生時代』所収)は、高等学校の入試制度が共通試験になる以前の明治30年代が背景となっています。
主人公の久野健吉は東北地方の中学を卒業後、一高の受験に失敗。翌年、捲土重来を期して上京、東京の姉の家に下宿して、予備校に通いながら受験に備えます。
一つ年下の弟も、中学を学年6番という優秀な成績で卒業し、やはり一高受験のために上京します。
弟のほうが長い時間(作中には一日十時間と)の勉強に集中し、数学もよくできます。義兄の長兄の娘澄子に思いを寄せる健吉は、彼女が弟と親しくしているのを見て猜疑と嫉妬を覚えるようになっていきます。
四日間にわたる一高の入試が終わり、発表を見に行くと・・・
私は掲示を見上げた。終りの方の三部と云ふ區劃を慌てゝ見別けると、そこのずらりと竝んだ番號に熱した眼を急速に注いだ。一二九、一二九は無かつた。私はまだ信じられなかつた。もう一度見直した。矢張り無かつた。そして尠からず慌て出した。もう一度未練に見直した。無かつた。念のため乙の方をも見た。乙の方にも一二九は無かつた。一部、二部、三部を通じて、一二九といふ番號は無かつた。かうなつて來た時、私は嘘のやうに平氣だつた。何だか無いのが當然のやうにも思つた。併しそれは一瞬だつた。次に私は俄然として私の位置を自覺した。落第だ! 何もかも駄目だ。すべてが失はれた。――さう思ふと胸の中が煮え返るやうに動顛した。
ふと弟はと思つた。二部甲の二一六! 私は急いでそこを見渡した。すると紛れもなくそこには、弟の番號が在つた。在つた、在つた! 私は自分の眼を疑ひたかつた。
翌日、上野から故郷に向かった健吉は途中の山潟で下車し、暗い猪苗代湖のほとりをさまよい歩いたあげく、入水自殺をしてしまいます。
■ 作品に見られる受験競争をめぐる諸相
前回取り上げましたが、高等学校志願者の希望は一高に集中しました。
健吉が願書を出しに行ったときに次のような場面があり、倍率の高さがうかがえます。
古い煉瓦作りの本館の横に、名票の受附所はあつた。そこには事務員と小使とが、粗末な机を前に控へてゐた。吾々が一生の運命を踏み出す、第一關門の關守にしては、彼らは餘りに貧弱だつた。それにも拘はらず、彼らは怖ろしく見えた。小使は受驗用の寫眞を取ると、同型に揃へるために、遠慮なく厚い臺紙の端を裁ち落しながら、「はゝあ三部だね、しつかりしなくちや駄目だよ。今年は殊に三部志望が多いから、この分ぢや十五人に一人位の割になるかも知れない。去年は十二人位だつたが――」などと云つた。
私はすつかりこの男に嚇かされて了つた。
(左端が東京帝大時代の久米正雄、右から二人目の芥川龍之介は英文科の同級生)
過酷な受験勉強のストレスからか、精神に変調を来した受験生の様子も描かれています。
最終日の歴史の試験の前に監督者が注意を言った後のことでした。
誰かゞ向うの隅で、「くすり」と笑つた。するとそれに刺唆されて大半の人が笑ひ出した。その中に或る一人が「ひゝゝゝ」と云ふやうな妙な笑ひ聲をあげた。
試驗官の顏には勃然たる色が浮んだ。そして再び丁寧ながら、鋭い聲がその口から出た。
「誰です。今妙な聲を出して笑つたのは。」さう云つて彼は急にしんとした教室を見巡すと、それと覺しい机のあたりへつか/\と進み寄つた。そこには一人の青白い青年が、眉を吊らせて見守つてゐた。
「君ですね。今笑つたのは。」試驗官は訊ねた。
「…………」受驗生は默つて眉のあたりを白ませた。
「君でせう。」試驗官はもう一歩追窮した。
「…………さうです。」受驗生はやつと答へた。
「さうですか。ぢや答案はもういゝから、こゝを出て呉れ給へ。理由はわかつてるでせう。」
今度は誰も笑はなかつた。却つて白け渡つた沈默が、試驗場内をしんと支配した。
「出ようと思つてゐた處でした。」受驗生はデスペレートな反抗でさう云ひながら立ち上つた。そして滿場のひつそりした視線の中で、足音高く出て行つた。
やがて廊下のあたりでその青年が、もう一度「ひゝゝゝ」と笑ふのが聞えた。
試驗官は殘されてあつた答案を見ながら、「ちつとも出來てやしない。今の學生は生意氣で困る。」と獨り言を云つてゐた。
私は自分も可なりデスペレートになつてゐたので、心からその青年に同情した。寧ろその意氣を壯としたかつた。「ひゝゝゝ」と笑つた聲。その聲こそはこの受驗制度を、底から呪つた笑ひではなかつたか。私とても笑へるならさう笑ひたいのだ。滿天下の受驗生とても、皆聲を揃へてさう笑ひ度いに違ひないのだ。そして若し、現今社會の生んだ醜き畸形兒なる吾々受驗生が、聲を揃へてこの笑ひを笑つたなら、當局の人々は果して何と云ふであらう。「少しも出來てやしない。今の學生は生意氣で困る。」さう呟く事によつて果して事が濟まされるであらうか。――
青空文庫の原文を使わせてもらったために、旧仮名遣いに漢字も旧字体になってしまいました💦
■ 中学校卒業者の進路先
中学校を卒業した人たちはどんな進路を選んだのでしょうか。
上の表から、明治末にかけての10年間の推移を見ていくと、いくつか気がつくことがあります。
○高等学校へ「進学できた人」の比率が大きく減りました。
○教員(小学校の代用教員)の比率は約1.5倍に増えています。
○自家(農業・商業など)及びその他民間の人が倍増しています。
○未定(その多くはいわゆる進学浪人)の比率が変わらずに約3分の一と高いままです。
*「浪人」の語が見られるようになるのは大正末期と言うことです。
ちなみに「現役」は元々軍隊用語とか。
■ エリートへの第一関門は高等学校入試
当時の高等学校(「旧制高校」と呼ばれる)は、明治41年(1908)の時点で8校(第一=東京から第八=名古屋までの、いわゆるナンバースクール)ありました。
その年の卒業者は1,269名で、20歳男子の454,330名で割りますと、在学率はなんと0.29%(345人に一人)という「レアな存在」です。卒業後は帝国大学を経て各界のエリーとなってゆく人が多く、「学歴貴族」と評されることもあるぐらいです。
中でも第一高等学校(一高:東京大学教養学部の前身)の入学試験は、「天下の秀才」たちがこぞってめざす最難関として有名でした。
明治40年頃の高等学校入試は「全国共通総合選抜」でした。
第一希望は次のように一高に集中しました。なんと、高等学校志願者の約7割が一高を第一希望にしていたのです。
一高(東京)4,117 二高(仙台)323
三高(京都) 714 四高(金沢)206
五高(熊本) 278 六高(岡山)268
七高(鹿児島) 76
当然のことながら、一高入試は苛烈を極め、後に取り上げる予定ですが、短編小説の素材になるほどでした。
(明治37年一高の受験票と英語問題ーこの時期は全国共通問題、「希望の英語教育へ」ー江利川研究室ブログー、https://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man?__ysp=5rGf5Yip5bedIOaYpembhA%3D%3D)
(第一高等学校合格者氏名・族籍の記された官報、明治42年8月6日官報7835号)
当時、高等学校の入試は七月に行われていました。
三月に中学校を卒業した地方の生徒の多くは、受験前の数ヶ月の間、東京の予備校に在籍して「最後の追い込み」をかけました。
兵庫県の姫路中学校を卒業した和辻哲郎(哲学者)も『自叙伝の試み』の中で、明治39年(1906)4月に上京し、7月上旬の入試までの中央大学の予備校に入ったと記しています。
先日、お得なキップの記事で取り上げましたが、福井県坂井市にある「道の駅さかい」付設のホールで催された見出しの落語会に行ってきました。
120名のところを急遽40席増やして、満員御礼という入りでした。
(開演30分前)
開口一番、いつもの軽妙なマクラをたっぷりと展開(20分余り)。噺は勿論ですが、鯉昇さんのマクラは絶品です❗️
よくもまあ、あんな発想ができるものだと😁
YouTubeで繰り返し聴いてるので、(マクラの)持ちネタもたいがいは知ってますが、今日は新ネタもありました。
初めに「武助馬」、連続して「持参金」。ここまで80分しゃべり詰め❗️
休憩10分の後、それまでとは趣を変えて、「芝浜」をしんみりと30分という今夜の会でした。
本当に三席たっぷりと鯉昇ワールドに浸り、堪能させていただきました👍
会場は北陸本線の丸岡駅からタクシーで10分くらい。終わって福井駅前のホテルに戻ったら21時半でした。
( 天気がよくて余裕があれば、丸岡城の桜も見たいところですが、明日は滋賀の孫に会いに行きます)
鯉昇さんの「追っかけ」は三回目。一昨年は日本橋会館で「桃太郎・鯉昇・喬太郎三人会」へ、去年は奈良県桜井市へやはり独演会を聴きに行きました。
弱小鉄でもあるんで、行き帰りの鉄道も楽しみの一つです(笑)
帰りの電車はよく空いていました。
遅い晩御飯は地酒に蟹飯🦀よく寝られそうです💤
明治の30年代から中学校の増設が進み、明治34年(1901)に全国の中学校卒業者数9,444人であったものが、10年後の明治44年(1911)には、17,561人と1.86倍に増加しました。戦前期最大の増加率であったと言われています。
それに対する受け皿、つまり上級学校の入学定員は次のように、なかなか追いつく状況ではありませんでした。
■高等学校入学定員
明治34年(1901) 1,702
明治44年(1911) 2,199(1.29倍)
■官立専門学校入学定員明治36年(1903) 2,812
明治44年(1911) 3,801(1.35倍)
(第五高等学校:現在の熊本大学、https://www.eng.kumamoto-u.ac.jp/faculty/history/history1/)
一方、入学志願者は、高等学校では約四千名も増えており、志願倍率は約3倍から約4.5倍と高くなっています。高等学校の増設が叫ばれましたが、財政難を理由に実現しませんでした。
(明治43年頃の第一高等学校生徒、前列中央は菊池寛、https://blogs.yahoo.co.jp/julywind727/28190528.html)
官立の専門学校の場合も志願倍率は明治36年(1903)の2.65倍から明治44年(1911)の3.55倍へと、結構高い伸びを率を示しています。
(明治39年創設の仙台高等工業学校:現在の東北大学工学部、http://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/gen/postcard1.html)
もちろん、この他にも私立の専門学校が多数存在しましたが、期待されるほどの受け皿確保にはつながりませんでした。
高等師範学校や軍の学校(海軍兵学校、陸軍士官学校)なども定員自体がもともと少ないために、全体への影響はほとんどありませんでした。
年々高まる中学校卒業者の進学希望に見合うだけの高等教育機関の定員増加がないため、必然的に進学競争は激化していきました。
# 菊池寛(作家・明治21年~昭和23年:1888~1948)の学校遍歴はなかなかのものです。
東京高師(除籍)→明治大学法科(3ヶ月)→早稲田大学(籍のみ)→第一高等学校(卒業直前に退学)→京都帝国大学文学部
その3「級長の任務」
現在の中学校や高校では、各クラスに学級委員長・副委員長がいます。「学級委員」、「クラス委員」、「ホームルーム委員」などと呼んでいる学校もあります。普通はクラス全員の選挙で選ばれています。
その昔は、「学級委員長」ではなく、「級長」と呼ばれていました。(今でも一部の私学にはその名称が残っているようです)一般的に学級担任が指名するという形をとっていました。
明治時代、中学校の「級長」はどのような存在で、どのような権限をもっていたのか(持たされていたのか)というのが今日のお話です。
一例として、明治45年(1912)の「秋田県立本荘中学校一覧」から、関係する部分を抜き出してみましょう。
(秋田県立本荘中学校、明治35年創立)
(七)級長規程
第一条 各学級ニ級長、副級長ヲ各一人置キ其任期ヲ六ケ月トス
第二条 級長、副級長ハ学級主任ノ推選ニヨリ学校長之ヲ任命ス
第三条 級長、副級長ノ任務左ノ如シ
一 学校ノ訓示、命令等ヲ伝達シテ其実効ニ努メ其学級一同ノ栄辱振否ヲ以テ自ラ任スヘシ
二 常ニ其ノ学級生徒ノ行状、修学、衛生等ニ注意シテ校規、校風ニ違フモノアルトキハ之ヲ忠告シ猶用イサルモノアルトキハ学級主任又ハ学校長に申シ出ツベシ
三 教室内ノ器具ノ保存、整頓、換気、警火等ニ注意スヘシ
四 教室掃除ノ人数並ニ番割等ヲ定ムヘシ
五 学級ニ対シテ意見アルトキ又ハ学級ヨリ申シ出ツベキコトアルトキハ之ヲ申告スヘシ
六 級長(不在ノ時ハ副級長又ハ主席生徒)ハ教室ニ入ルトキハ其ノ先頭タルヘク教室ヲ出ツルトキハ殿後タルヘシ
七 副級長(不在ノ時ハ主席生徒)ハ教室ニ入ルトキハ其ノ殿後タルヘク教室ヲ出ツルトキハ先頭タルヘシ
八 (略)
第四条 級長、副級長ニ所定ノ徽章ヲ附セシム
(旧字体は新字体に改めています 下線は筆者)
いかがでしょうか。当校が特に厳しいわけではありません。当時の一般的な規程になっています。
級長さんは本当に大変ですね。
一般生徒の模範となるだけでなく、彼らの言動を注意深く観察し、注意までしなければならないのです。言うことを聞かない場合は、先生に報告もしなければなりません。
いわば、先生の助手のような役割を果たしていたのですね。(悪く言うと学校側のスパイでしょうか)
いくら優秀な生徒でも、これだけの「重い任務」をきちんとやり遂げるのは並大抵のことではありません。
そこで、学校によっては任務を無事に勤め上げた生徒を「特待生」扱いにしたり、中には「授業料免除」という特権を与えたところもあったようです。
明治の末期頃から生徒の管理体制が強化されたことを前回とりあげましたが、いよいよ「生徒自身による生徒管理」という形が生まれたのでした。
ちなみに、学校によってはさらに強力な「監督生」の制度を取り入れていたところもありました。
これは五年生が任命され、一年生から四年生の各クラスごとに担当者を置くというものです。
生徒指導、課外活動などで学級担任の補助的役割を担わされていました。
天気がいいのと、特に用事がないのと、運動不足解消ということで、車で10分ほどのところにある平池公園へ。
寒い間はご無沙汰してましたが、暖かくなって再開。今週は今日で二回目です。
いつもは公園の周回ルートを外れて、農道に出ます。我が家の田んぼと比較しながら、「えらい水のたまりようやな!うちのほうがましや!」などと家内と話しながら。
今日は一人だったんですが、今年初めて遠くで雲雀の鳴き声を聞きました!
このあたりは古代から開けていたらしく、『播磨国風土記』には「起勢里」(賀毛郡・かものこおり)という地名で出てくるらしいです。※「稀勢の里」と紛らわしいですね(笑)
たしかに、遠くまで肥沃な平地が広がっています。家並みの向こうには川が流れています。住みよいところだったのに違いありません。
同じ市内でも、加古川の河岸段丘東端にあって、耕地にも高低差のある私たちのところに比べると、農作業のしやすい、うらやましいような地形です❗️