往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国の今昔あれこれ3 「源ケ坂」伝説

私たちの山国地区の西北部に「源ケ坂」というちょっとした坂があります。
また、そのさらに西北部には、同名の小字もあります。

隣の松尾地区から源ケ坂、熊野神社の森を望む 左奥は三草山

荒木勉『社の道標を訪ね歩く』より

筆者撮影2024年4月 桜の木は40年ほど前に圃場整備を記念して植樹

この「源」「三草山の戦い」平家物語では「三草合戦」)の後、有名な一ノ谷の合戦に向かう源義経の軍勢が通過したところから命名されたという伝承が残っています。
また、地区の北部を東西に流れる「下川」にも、義経軍がこの川で米を洗ったので水が白く濁ったということから白川(しろかわ)と呼ばれ、やがて下川(しもかわ)に変わった、という伝承があります。

加東市内のうち社地区(旧社町)には、この他にも「弁慶の力石」「いくさ野かなし池」 「百旗(立)」「義経お手植えの松」「弁慶の投げ桜」「源氏橋」等々多くの源平合戦にちなんんだ伝承地があります。

国道372号線わきの源平モニュメント(加東市観光協会ホームページ)

これらの伝承の信憑性については今となっては確かめるすべもなく、また確かめない方が夢があっていいのかも知れませんが、社町史』における専門家の見解を見ておくことにしたいと思います。

社町域に残る三草合戦をめぐる伝承は・・・合戦当時から民衆がその見聞を連綿と語り継いできたという伝承もなかにはあるかもしれないが、それよりむしろ、源平合戦義経、弁慶などのことが、『平家物語』『源平盛衰記』『義経記』などの流布、さらには能、歌舞伎などによって社会に広く伝えられるようになってから(おそらくその時期は近世以降)、その活動舞台とされている地域の民衆が触発されて、村の歴史に彩りを添えるために強引に結びつけた話が、いつしか伝承として語られるようになったケースも少なくないと思われる。(『社町史 第1巻本編1』第2章第1節 三草合戦と武家政権の成立 執筆:河村昭一兵庫教育大学教授〈当時〉)

研究者らしく慎重な表現をされていますが、下の義経軍通過伝承地」を見ても、どうも加東市から小野市(小野市にもいくつか通過伝承はありますが)を経て現在の神戸市鵯越、一ノ谷へというルートは3本のうち最も迂回しており、不自然だろうと思われますね。

社町史』より ×点が源ケ坂

また、「山国・源ケ坂遺跡」の発掘調査結果(加東郡教育委員会、1992年)では、この坂の下あたり一帯に、古墳時代後期から室町時代あたりまで一大集落があったようで、人々が台地上に移動して集落を形成したのは、少なくとも源平の時代から200年は後のことだったでしょうから、やはり町史記述の通り、江戸時代、ひょっとすると明治以降に作られた話かも知れません。
「源ケ坂」の字名の初出がいつだったか、今のところわかりません)

 

※三草山の戦いは、寿永3年2月5日(1184年3月18日)播磨国の三草山における源義経軍と平資盛軍による戦い。平安時代末期の内乱である治承・寿永の乱の合戦の一つで、一ノ谷の戦いの前哨戦である。

 

【参考】

社町史 第1巻本編1』2007年

荒木勉『社の道標を訪ね歩く』2012年

加東市観光協会ホームページ

www.kato-kanko.jp

ブログ「ふるさと加東の歴史再発見」 https://blog.goo.ne.jp/hyaku-chan-fuji888/