明治5年(1872)、明治新政府は「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」のスローガンの下、我が国で初めての公教育法制として「学制」を公布しました。
それ以前から殆どの村において「寺子屋」が開設されていました。19世紀に入ってから、特に文化文政期(1804~1830)あたりに、全国的に多数開設されたということです。主に読本・習字、さらには算盤などが教えられていました。
『加東郡誌』(大正12年・1923)には、旧社小学校区の次の村にあったと記されています。
社2(うち一つは佐保神社神官)、山国(妙仙寺住職)、田中(庄屋)、家原2、喜田2
兵庫県教育会 編『兵庫県教育史』藩学郷学私塾寺小屋篇(兵庫県教育会,昭和18・1943)では、山国の妙仙寺における在籍者数が男女計20とされていますが、確実な調査によるものとは思われません。
当時、百数十軒もあった大きな村で、今と違って子どもの数も多かったことなどから、もっと多くの「寺子」がいたとしても不思議ではないことでしょう。
さて、「学制」公布直後に現社小学校区内に出来た小学校を挙げると、次にようになります。上と比較すると、ほとんどが寺子屋からそのまま移行した「学校」だとわかります。
1 知新校(社、官舎借用)、2 報国校(山国・松尾、妙仙寺)、3 潺湲(せんかん)校(田中・出水)、4 汲孜(きゅうし)校(貝原、庵)、5 静修校(鳥居・家原)、6 汲採(きゅうさい)校(西垂水)、7 南寿校(窪田、寺院)、8 良誘校(梶原・喜田・上中)
いかにも難しい漢字の校名ですね。1は「温故知新」、2は「七生報国」というふうに典拠が想像できますが、それ以外も教育や学問にちなむ漢詩・漢文の字句から採用されたと思われますが、いずれにしても難解です。
なお、「先生」と言うよりは「お師匠さん」でしょうが、言うまでもなく寺子屋時代からのままで、神官、住職、庄屋さんなどが務めていたというのがごく初期の実態でした。
ちなみに、山国の「報国校」の場合、当時の『文部省年第三報』(明治8年・1875)には「教員1 男60 女39」という記載があり、あくまでも書類の上でしょうが、在籍者数は寺子屋時代の5倍になっています。
なお、『加東郡誌』(加東郡教育会、1923年)では、三草藩校の教師を務めた河野通誉という人物が一時期、この報国校で教鞭を執ったと記しています。
妙仙寺が三草藩主丹羽家の国元菩提寺であったご縁でしょうか。
明治元年(1868)熊本生まれの小説家・徳冨蘆花(1868-1927)が名作『思出の記』の中で自らの通った小学校のことを次のように述べる箇所があります。
小学校には相変わらず通っていた。僕の家から六七町田の中にちょこりんと一つ立った茅葺(かやぶき)のがそれで、田舎の事だからまあ寺小屋にちと毛のはえたくらいのもの。
就学が義務つけられたために、在籍者は増えましたが、実質はまさに「寺子屋に毛の生えたようなもの」であったというのがそのころの小学校でありました。