往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ9 山国の子どもたちが通った寺子屋と小学校②

前回の記事にあるように、「学制」公布直後の小学校は、いずれも寺子屋の実態のまま看板だけを掛け替えたようなものでした。

当時、学校の運営に要する費用は授業料や民費に依存していました。村ごとの小規模な学校では維持が困難なことから、明治8年(1875)飾磨県(後に兵庫県)は、学区域を拡大して小規模校の統合を進める方針を打ち出します。
その結果、当初旧社町に20もあった小学校は、明治9年(1876)には9校になりました。

これに伴って、報国校(妙仙寺)に通っていた山国と松尾村の生徒は、田中・出水の両村の子どもたちとともに東古瀬(現在の福田小学校の位置)に当時としては数少ない新築の校舎の建った「河東校」へ通うことになりました。

当校の校区は地元福田地区、社地区の一部、現小野市下東條地区の計17か村で、生徒数430人、教員9名(男8・女1)という県下で9番目の「大規模校」だったそうです。

 

同時に、現・社小学校区にあったその他の小規模校は「八城学校」に統合され、その校舎は社の下町(しもまち)、現在の明治館の場所に新設されています。
上の地図に見るように、この場所は松尾村からはすぐ近くにあり、山国村からも現在の社小学校へ通うよりもずっと近かったのに、上記のように振り分けがなされてしまいました。

明治館(後に加東郡公会堂、戦後は中央公民として利用された。加東市ホームページより)

その理由については不明ですが、他の村での事例から察すると、学校運営費用の負担をめぐって問題が生じていた可能性があると思われます。

 

ちなみに、明治9年当時、上福田村上三草の就学率が、吉田省三『社町史こぼれ話』に載っていますが、それによると「 戸数95 人口445人 学齢人口 73人中就学者は男子36人中の21人、女子に至っては37人中のたった一人」という数字が残っており、不就学の理由として病気療養、生活困窮等々の理由が古文書に残っているようです。

山国からはどれぐらいの人数が通っていたのでしょうか?

 

なお、上のようなやや不自然な通学区域は、明治16年(1884)に解消されて、山国・松尾を含め、現在の社小学校区内の村々の子どもたちは、すべて上記の「八城学校」に通うことになりました。

ここからは余談ですが、筆者が社小学校の6年生の当時(昭和42年・1967)のクラスは校長室の掃除が当たっていましたが、古色蒼然とした「八城学校」(右から左へ)と記された扁額が掛かっており、「三条実美(さんじょうさねとみ)*」の落款があったことをことを覚えています。(その頃は「さねとみ」と読めませんでしたが
この社小学校の校長で退職し、令和4・5年(2022・2023)の2年間山国地区区長を務められた田中寿一氏に聞くと、今でもこの額は掲げてあるそうです。

明治40年以前、社の下町にあった頃の社小学校(『加東郡誌』より)
西側から見ると小高い丘の上に建っているのがよくわかります。

現在の明治館南側にある石段 この石段で遊んだ思い出も「記念誌」に掲載されています。
写真はブログ「ふるさと加東の歴史再発見」より

その後、この学校は尋常小学校、社尋常高等小学校、社国民学校、社小学校と校名が変わりますが、創立から30年余りはその位置にありました。おそらく敷地いっぱいに校舎が建っていたことでしょう。

『創立百年誌 社町立社小学校』(1973年)には、明治時代の卒業生の回想文があり、「運動会などは現在の市民病院のあるあたりの原っぱへ出かけて行った」という内容の文章が見られます。
  明治42年(1909)5月に現在の位置(加東市社1550、古くから「御霊山」(ごりょうやま・ごろやま)と呼ばれていて、校歌の歌詞にも「ごりょうが丘の かねの音に」とあります)に校舎が新築されて移転し、令和の現在に至っています。

昭和43年(1968)の社小学校(ブログ「ふるさと加東の歴史再発見」より)
この年の春に筆者は卒業しました。

ここからは私事になりますが、東古瀬にあった「河東校」(後に福田小学校)は当時の加東郡の中央福田村東古瀬字南坊にあり、その後明治20年(1887)に郡内で初の高等小学校(義務教育である尋常小学校4カ年の後に進学する4カ年の課程)である「福田高等小学校」が設立されました。同校には加東郡内はもちろん、遠くは美嚢郡(現在の三木市)からの入学生もあり、寄宿舎も設けられていたそうです。
筆者の曾祖父・和三郎(明治14~昭和35年・1881ー1960、農業の傍ら、戦前に町会議員と区長などを歴任)が生前に孫の嫁である私の母親に語ったところによると、「村から高等に進む者は一人か二人しかいなかった」ということです。
 これは当村に限ったことではなく、明治20年代にあっては全国的にごく一般的な状況であったと思われます。

 

*幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣内大臣