往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ11 熊野神社(権現さん)

現在、山国地区には神社が三社あります。

熊野神社 祭神:伊弉册命(いざなみのみこと)山国字ババ1445番地   1276坪 末社2社
賀茂神社 別雷命(わけいかずちのみこと) 同 字ババ1364番地   237坪
八坂神社 須佐之男命(すさのおのみこと) 同 字小山1169番地の2   58坪末社2社

                         『加東郡誌』(加東郡教育会、1923年)

 

※上記の三社のうち、八坂神社については寛保2年(1742)の「明細書上帳」(村明細帳)には記載がありません。それ以降に創建されたのでしょうか。

なお、賀茂神社については、昭和62年(1987)の大修理の時に棟札が見つかり、宝永2年(1625)に創建、正徳5年(1715)に再建されたことが、当時の区長さんの残された文章で分かっています。(田中哲二「氏神様を知る墨書銘棟札」『ふるさとやしろ』社町老人クラブ連合会、1993年)

(西隣の松尾地区公民館付近より撮影 玉垣と鬱蒼とした鎮守の森が見えます)

 

熊野神社、通称「ごんげん(権現)さん」は当地区の氏神ですが、地区西部(通称・したじょ)の各組(隣保)が輪番で清掃、祭祀などの管理を担当しており、8年に一度その順番が回ってきます。


筆者もそうでしたが、神社周辺で育った子どもたちにとっては、「ごんげんさん」は格好の遊び場所でありました。

私たちの年代が小学生の頃は、狭い境内で三角ベースボールや、人数が揃わないとキャッチボールなどをした覚えがあります。逸れたボールを探しに林の中へ入ると、そこに自生しているウルシによくかぶれていました。

地区の東部に村のグランドが出来るまでは、境内の東半分の木立が伐採され、老人会(後にシニアクラブ)のゲートボールの練習場になっていた時期もありました。

昭和30年代には、夏に野外映画会があり、夜店が出たこともありました。

毎年、7月の祇園祭(通称:ぎおんさん)の日には、市内下久米にある住吉神社から宮司さんが来られ、祭礼が執り行われるほか、小学生の子どもたちによる奉納相撲が行われていました。

地元のお年寄りは、この伝統行事のことを「ぎおんさんのすもん(すもうが訛って)と呼んでいたのを懐かしく思い出したりします。

子どもが多かった時代は、参加するのは小学生の男子だけでしたが、子どもの数が減ってくると、低学年の女子も入ったり、保育園児なども参加したりしていたようです。(筆者の子どもたちの経験から)

ところが、この奉納相撲も2020年(令和2年)からの3年ほど続いたコロナ禍で中止になり、子どもの数がすっかり減ってしまったこともあって、伝統行事も自然消滅のような形になっています。

したがって、子どもの遊び場だった「ごんげんさん」も今では、溝普請、道普請、クリーンキャンペーンの集合場所とか、シニアクラブの草刈り奉仕作業の場所になってしまっています。

(近隣には、大げさではなく小学生は皆無の状態です)

扁額には元文二年(1738)の銘があります。「大権現」と読むのでしょうか。
三草藩成立のちょっと前になります。創建もその頃なのでしょうか?

(「全国熊野神社参拝記」みくまのネット)

 手水舎の手水石には「明和4年」(1767)とあります。

狛犬は弘化4年(1847)

 

いったい、この氏神としての熊野神社はいつ頃に創建されたのでしょうか?

また、なぜ「熊野」なのでしょうか?(『加東郡誌』で各村にある神社名を見ると、八幡神社、大歳(年)神社などは数が多いのですが、熊野神社は現在の加東市内には当社のみです)

かなりの難問ですが、上の扁額の銘に見るように元文(げんぶん)年間(八代将軍・吉宗の時代)には建立されていたようです。

 

当村ではその頃までは幕府領でありましたが、寛保2年(1742)に三草藩の領地となりました。

その年に当時の山国村の年寄・庄屋(各2名)から三草藩(元文4年~明治4年:1739~1871、譜代1万石、加東市上三草に陣屋があった)に提出した「明細書上帳」(めいさいかきあげちょう、いわゆる「村明細帳」で当村の村高・反別・検地・年貢高・家数・人数のほか,物産・寺社・河川・山林などを記したもの)には以下の記載があります。

熊野権現境内御御除地三反歩  村支配
但宮建四尺四方 但拝殿部隊有
同社附御除地下々畑壱反六歩

 ※「御除地」・・・年貢を免除されている土地  

 

子どもの頃遊んでいて、石灯籠に「丹羽○○守」と刻まれているのを見た記憶がありました。

60年近く経過した今、改めて探してみると、拝殿に向かって左奥にある石灯籠の正面にに  「奉納 丹羽若狭守家臣 小川藤蔵源義果」と刻まれています。

側面には天保十年」(1839)とあります。

「丹羽若狭守」とは、三草藩第五代当主丹羽氏賢(にわうじまさ、文化8年~嘉永7年・1811年〜1854)のことで、文政十二年(1829)には主君徳川家斉の命により齢17歳にして日光祭礼奉行を勤めた人物ということです。


この小川藤蔵という人物は、三草藩の中小姓格の武士で「金六両二人扶持」。主君の外出などに際して身辺警護などを担当する役人だったようです。
天保10年(1839)に江戸住まいであった藩主の名代として、鈴木半之進(知行百石・中老格)という藩士が美嚢・加東・加西・多可の四郡にまたがる領地巡検したときに、警護の付き添いとして従っていたとされています。(『社町史第2巻 本編2』)

 

小川氏は、西隣の東実村(その当時は奥州白河藩領であった)にある「東実佐保神社(当地区の約半数はこの神社の氏子で、我が家もそうです)にも同じく天保10年に石灯籠を寄進されています。(下の写真)

https://omairi.club/spots/106480/point

玉垣に石灯籠にしても、富裕な商人や地元の有力者などが寄進されているのは見かけますが、失礼ながら一介の下級武士に過ぎない小川氏がどういう理由でなされたものなのでしょうか。

よほど信心の厚い方だったのでしょうか。それとも、当山国村や東実村に何かの御縁のある方だったのでしょうか?

(この件については、中学の先輩である佐保神社宮司の神崎氏に、迷惑顧みずに質問中です(^_^))