わたしたち山国地区には、昔から村の東西南北の四ヶ所に墓地があります。
そのうち、山国東部(通称:うえじょ〈上所?〉)のお墓のほとんどは地区の東外れにあるヨキトギ墓地*にあります。
秋の彼岸の中日には毎年「無縁仏の供養」が行われ、読経を妙仙寺のご住職に依頼することになっています。私も昨年度までの4年間は地区役員として参列しました。
去年のことですが、何気なく墓石に刻まれた戒名などを眺めているうちに、「初嵐文七」と刻まれた一つの墓石が目に止まりました。
(「初」の字のツクリが「刀」ではなく「力」になっていますね)
家に帰って「これは相撲取りの四股名にちがいない」などと家人に話したのを覚えていますが、つい先日図書館で借りた吉田省三**著『社町史こぼれ話』(社町、2005年)という小冊子をパラパラとめくっているうちに、「こぼれ話80ー宮相撲の力士たち」という記事をみつけました。
江戸末期から近代へかけて、加東郡(古くは現在の小野市域を含む)に相撲の元祖野見宿禰(のみのすくね)にちなむ「宿禰講(すくねこう)」***という草相撲の結社があった。神社などの祭礼で興行したので、宮相撲ともよばれる。
その加東郡北組の連名帳によると、おもな年次の力士数は次の通りである。
慶応 3年(1867)社21・その他17・計38
明治19年(1886)社19・その他10・計29
32年(1899)社18・その他11・計29
39年(1906)社10・その他8・計18
大正 4年(1915) 社12・その他16・計28
13年(1924)社7・その他11・計18
昭和 7年(1932) 社5・その他11・計16 ※その他はほとんどが滝野町域である。四股名は慶応3年ではつぎのものが記されている。
若サ野・獅子飛・若獅子・八十川・荒浪(社)
曲尺(かねじゃく)・荒熊・小天狗(野村)
白浜・勇川(いさみかわ)(吉馬)入船・六浦川(大門)松嶋(垂水)真垣野(家原)
寿(上田)初嵐(山国)陣貝(三草)木村(鳥居)鋸(出水)津キ嶋(馬瀬)小松崎(山口) 出典:滝野町「岡本四郎家文書」
四股名には、職業を示すものもある。曲尺、鋸は大工、入船・荒浪は高瀬舟の船頭であろう。六浦川は大門村の船着き場、陣貝は三草陣屋によるのだろうか。
※赤字は筆者
そいういうわけで、幕末から明治にかけて、当時の山國村にも宮相撲の力士がいたことがわかりました。
無縁仏ですから、もちろん生年・没年や本名などは分かりませんが、引用文中に挙がっている四股名の中では、なかなか洗練されたネーミングではないでしょうか。
このような宮相撲(草相撲)の組織(講)は、全国各地に存在したようで、「国立国会図書館デジタルコレクション」で「宿禰講」をキーワードに検索すると34件がヒットします。
そのうち、近くでは同じ東播磨地域の農村の民俗をテーマとした石見完次著『東播磨の民俗ー 加古郡石守村の生活誌』(神戸新聞出版センター, 1984年)に、短く次のような記述が見られます。
宿禰講は力士連中の講である。石守に代々よい相撲取りがいて、講も有力であった。(第2章 村の信心)
もう一つ、これは兵庫県下の北部・但馬地方のことですが、谷垣桂蔵著『兵庫県の秘境』(のじぎく文庫,1965年)にはやや詳しい記述があります。
宮相撲は祭りの奉納神事として行われ、その用具は氏子が調え、当日の経費の他に給銀の名で酒代を出した。
宮相撲の初め十二番はこども相撲で、その後で青壮年がとる。彼らは「しこ名」を持ち、他村の祭にも出かける。養父町畑、朝来町佐中は素人相撲の横綱格がいて、青年たちの中にも強い者が多かった。今では道ばたの大きい碑は戦死者のそれであるが、以前は法界石(供養碑)か力士の碑しかなかった。
そのほか、ネット上で検索すると、新潟県上越市諏訪地区における草相撲(宮相撲)についての以下のような記述がありました。
盛んだった草相撲
江戸時代に入ると、職業としての相撲が隆盛する一方、人々の娯楽としての草相撲が発展する。なかでも、祭りなどの祝い事で催される村々の力自慢の青年が集う奉納草相撲(=寄り相撲)は、村人にとっての娯楽であり、出身の強豪力士の応援に熱狂し、勝負を観戦した。明治時代の前半に活躍した力士の石塔が残されている。
「希望燃ゆ 諏訪の里」 [第28回] 22.楽しみだった寄り相撲と盆踊り
https://kubikino-suwa.com/post_kibou/4166/
やはり、資料は多くはないようですが、宮相撲(草相撲)は江戸から明治にかけて全国各地の農村で盛んに行われており、庶民の娯楽の中では上位に位置していたようですね。
大正12年の『加東郡誌』では、 「素人相撲は昔は氏神祭等の際に、到る所催されしが今は稍衰えたり。」(第八篇風俗/第十二章娯楽/第二節遊技・技術)とあります。
冒頭に挙げた力士の人数を見ても、社地区では幕末から明治にかけて21名いたものが、大正末頃には3分の一に減っており、引用の記述に一致するような実態があったようです。
そういえば、当地区でもコロナ禍前は、東部は八坂神社、西部は熊野神社の祇園祭(7月上旬)において、子どもたちの奉納相撲が行われていました。(以前にこのブログでも「相撲嫌いの訳は」と題してとりあげたことがありました)
また、加東市を代表する秋の祭り、佐保神社の秋祭りでも昭和の頃は中学生の奉納相撲大会が行われていましたが、いつの間にか剣道大会に変わってしまいました。
*源平の合戦のとき、三草山の合戦を勝利した源氏方が須磨一ノ谷へ向かう途次、弁慶がこの地で「斧(ヨキ)を研いだ」という古い言い伝えがあるようですが、「源ケ坂」同様に近世に入ってからの作り話だと思われます。
**著名な郷土史家で、筆者は母校に勤務していた30代前半の頃に上司(教頭)としてお世話になりました。三草藩、加古川の舟運、地元の民話・伝説等々と北播磨の郷土史研究の第一人者と称される方でした。また氏のご長男は吹奏楽部の後輩に当たる方で、通学校吹奏楽部の熱心な指導者でしたが、定年後数年を経ずして逝去されました。
***相撲の起源は、「日本書紀」に記載されている紀元前23年(垂仁天皇7年)に、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が天皇の前で力比べをしたことが起源。