往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ10 海軍の練習機が墜落した!!

今からちょうど80年前の昭和19年(1944)7月14日の午後、飛行訓練を行っていた姫路海軍航空隊の練習機が山国地内の妙仙寺東南数百メートルあたりに墜落しました。

その詳細を上谷昭夫編集『いまに残る姫姫路基地』(平和記念の碑建立実行委員会、1999年)から抜き出してみましょう。

 

午後より飛行訓練のため鶉野飛行場*を離陸し、加西郡九会村宮木(現・加西市下宮木町)上空を通過し東方に向け進路を取った練習生出口飛行兵長、吉原飛行兵長そして教官の加藤上飛曹の乗機97式艦上攻撃機加東郡社町上田村(現・加東市上田)附近を飛行中、突如エンジンが停止、だんだん速度が落ち山国部落上空にさしかかり民家に不時着するのを避けるため、南側の田地に不時着を試みたが松の木に右翼が接触し切断され畑の畦に激突発火炎上し大惨事となった。
このおり午睡をしていた田中とし子さん(当時19歳)は、激突時の音で目が覚めた。部落の人は炎上する飛行機を見に行った。燃え上がる機体の廻りは一般の人々が立ち入りを禁止するため巡査が立っていたが、その折、一人の男性が巡査の制止も聞かず飛行機に向け突進し、我が身の危険をも顧みず灼けつつある搭乗員を次々に救出されたが、残念なことに全員亡くなられていた。この働きをされたのは地元山国の田中仙太郎さん(とし子さんの父、明治18年生まれ、当時58歳、故人)であった。52年経ったこの事実を隣人友原喜代次さん(大正7年生まれ、当時29歳)がはっきりと記憶されていた。
    (中略)
事故発生日 昭和19年7月14日(金曜日)晴れ
不時着地 兵庫県加東郡社町山国地内畑地(現在 圃場整備で変わっている)
殉職者 教員 加藤久一郎上飛曹(特進 兵曹長) 
甲種予備練習生15期生 練習生(前席) 出口外茂吉兵長(特進 一飛曹)
          同上                     (後席) 吉原敏夫兵長(同上)

 

*鶉野⾶⾏場跡は、第⼆次世界⼤戦時、戦局が悪化しはじめた頃、パイロットを養成するために設置された旧⽇本海軍の練習航空隊の飛行場跡です。正式名称は「姫路海軍航空隊」であり、地元では鶉野⾶⾏場と呼ばれています。
昭和18年3月に工事が着⼯され、同年10⽉に、姫路海軍航空隊が開隊されました。ここでは、九七式艦上攻撃機を使用した実用訓練が行われていました。
また⾶⾏場の南西部には、昭和18年末頃に、川⻄航空機姫路製作所鶉野⼯場が設けられ、終戦までに、「紫電」「紫電改」など 500機余りの戦闘機が組み⽴てられ、この飛行場で試験飛行が行われました。
昭和20年2月、姫路海軍航空隊においても、神風特別攻撃隊「⽩鷺隊」が編成され、鶉野飛行場から待機基地である大分県宇佐へ、さらに出撃基地である鹿児島県串良へ飛び立ち、沖縄での作戦で63名の尊い命が失われました。(加西市ホームページより)

97式艦上攻撃機Wikipedia

墜落箇所は左端の山際付近かと思われます。圃場整備で景観が一変しています。
(2024/5/29、妙仙寺の下から撮影 右の道路は県道85号神戸加東線)

 

(山国から直線距離で約10キロメートル)

太平洋戦争も後半に入ると、村の人たちも多数勤労奉仕に動員されました。中でも、この鶉野飛行場の工事には大量の動員がなされたことが、鶉野飛行場跡に建立された「平和祈念の碑」に次のように刻まれています。

昭和十八年一月上旬より土地買収及び家屋移転等の承諾調印が行われた。工事が始まり、地元加西郡はもとより近隣町村より勤労奉仕団、国民学校、中学、女学校の学徒動員の生徒、また朝鮮の人達の献身的労働により、僅か一年余りの作業で飛行場は完成した。

片道3里(約12キロメートル)ほどもある距離を、自転車の青壮年ならまだしも、中には出役の男手がないために、旧社町域から小学校(国民学校)の高学年の男子が徒歩で現地まで往復したという体験談も記録に残っています。

 

当地区は近くに軍需工場や軍の施設もなかったために、直接の攻撃対象とはなりませんでしたが、ちょっと場所を誤れば民間人にも被害が及ぶさらなる大惨事という可能性もあったこの事故のことを忘れ去ってはいけないと思います。

なお、引用文中に出てくる田中とし子さん、友原喜代次さんは筆者のごく近所にお住まいのお方で、在りし日のお顔やお声が思い出されてきました。

上記の書物は20数年前に購入していましたので、当時ご存命であったお二人にお話をうかがうことが出来たのにと思うと残念です。

 

現在、鶉野飛行場跡は平和学習の拠点「sora かさい」として整備されています。

「sora かさい」に展示されている紫電改のレプリカ

今、鶉野⾶⾏場のコンクリート製滑走路跡は、国から払い下げを受け、加⻄市が管理しています。令和4年4月にオープンした加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」をはじめ、周辺に数多く残る戦争遺跡群を「鶉野フィールドミュージアム」として、戦争の歴史を伝え残し、平和の学びの場として活用を図っています。

www.sorakasai.jp