往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ5 嬉野の今昔①

加東市のほぼ中央あたりに位置するかつては広大な原野であった嬉野台地(東部は依藤野と称される)は、標高100~130メートルの加古川高位段丘にあたる台地です。

地図上の赤丸は今回扱う記事に関連する部分で、嬉野台地は県道沿いに東南東のほうへと広がっています。

 

加東郡誌』加東郡教育会、1923年)は「嬉野」について次のように記しています。
 

嬉野は東西約二里、南北一里余、郡の中央部よりやや北(旧の加東郡は現・小野市を含んでいたため)に偏し、東条川以北久米谷以南に発達し、東は上東條村天神に、西は社町山国及び福田村(現・加東市東実に及ぶ。此の原野はしばしば開墾を企つるものありしが、未だ着手するに至らず。
(第1篇・地理/第3章・地勢/三・原野 新字に改めています)

小松や灌木、雑草の生い茂るこの原野は、明治時代から開拓が試みられていましたが、本格的に開拓が行われるようになったのは、太平洋戦争が終わった昭和20年(1945)以降のことでした。

 

■ 「嬉野」という地名 その由来は?

現在、兵庫県立嬉野台生涯教育センター(加東市下久米)を初めとして、嬉野診療所(山国)、嬉野台団地等々(山国)等々「嬉野」を冠する施設がいくつかありますが、旧社町の時代から「嬉野」という大字はありません。(下の地図のように交差点名称としてはあります)あくまでも古くからの通称のようです。
それでは、いったいいつ頃から、こう呼ばれるようになったのでしょうか。

加東郡誌』では前掲部分に続いて、地名のいわれを次のように述べています。

一説に、嬉野は、もと依藤野と称したりしが、天正(1573~1592)の頃、美嚢郡(現・三木市)細川村を領せし冷泉家は、三木城主別所氏に所領を略奪せられしより冷泉為純の子為勝はその家老たる小田城主依藤太郎左衛門に救われて、この野に来たり其の安全を喜びたり。因って嬉野と称すと伝う。(新字・新仮名遣いに改めています)

少し補足すると、冷泉為勝はこの地に逃げ延びて来て、味方がいると思い思わず「嬉しいの」と発したという説があるようです。
  (「依藤診療所 院長日記」より http://www.yorifuji-clinic.com/blog/archives/66.html
   隣の小野市で開業されている、この院長先生は、上記の依藤太郎左衛門の直系の子孫に当たられるそうです。)

(三木合戦ゆかりの地めぐり その38 ~小沢城跡・冷泉為勝、依藤太郎左衛門墓所~     https://signboard.exblog.jp/24943777/

※ちょっと興ざめになるかも知れませんが、依藤保『播磨の国人領主依藤氏の動向 関連史料とその解説』(2017年)では、上記の説(二人が此の地まで逃げ延びた)は否定

されています。

 

■ 1960年代(昭和40年代前半)の嬉野

 

(「今昔マップ」より 左:昭和42年(1967)右:最新の航空写真)

昭和43年から3年間、左上地図上の「社町立社中学校」に通いました。現在は兵庫教育大学附属小学校が建っています。

昭和30年頃の旧社中学校校舎付近(『わがまち社町 50周年記念誌』より)
周辺には田畑と原野が広がっているだけでした。

自宅(上左地図左端の山国)から自転車で県立嬉野公民研修所と野球場の間の道、さらに社高等学校正門前を通って中学校へというルートでした。
その間、民家はまばらで、高校の前に文具や菓子などを商う店があったぐらいでした。

現在は山国の番地では200番台(小字が「天狗山」、県立総合教育センター(旧教育研修所:上記の野球場あたり)一帯で宅地開発が進み、昔日の面影は全くありません。

公民研修所の跡地にも近年、加東みらいこども園が開設されました。
兵庫教育大学の附属幼・小・中学校社高校、さらに県立総合教育センター等と下の地図に見るように県下にも希な文教ゾーンになっています。

 

■ 戦時中の嬉野① 「嬉野学徒錬成場」という施設があった

数年前に高校の同級生で三木市在住の郷土史家宮田逸民君から、「山国に飛行場があったのを知っているか?」と言われたことがありました。
彼は中世の城郭研究家として有名ですが、陸軍の「三木飛行場を記憶する会」代表も務めており、この方面にも相当詳しいようです。

社町史 第2巻本編2』では、「近代編・第3章 近代社の生活 三 戦争末期と町域 ※執筆は高校時代に世界史を教わった中西良一先生です」において、嬉野学徒錬成場飛行場(実際は滑空場)についての記述があります。それによると両者は関連性の深い施設であったようなので、順に見ていくことにします。

 

まず、嬉野学徒錬成場です。

少し長いですが、『兵庫県教育史』(兵庫県教育委員会、1963年)に詳しい説明がありますので引用してみます。

この学徒錬成場は昭和18年4月、加東郡社町嬉野*において、工事費20万円と地元東播7郡の学徒1万221人の奉仕作業により、二カ年の日数を費やして完成された。この錬成場の宿舎は、八紘寮**と呼ばれる八角形の建物二棟、それに輸送船になぞらえてつくった長方形の建物二棟で、いずれも3階に仕切られ、各階とも腰を曲げて歩かねばならぬようになっていた。なお収容人員は400名、120坪(396平米)の講堂を中心に、食堂・大浴場・炊事場などが設けられていた。
この施設に県下中等学校***、青年学校の最上級生を一週間程度交代で収容し、徹底した錬成教育を施したのである。その訓練種目は次の通りであった。
航空班(滑空機・飛行機)  機甲班(自動車・戦車) 通信班(伝書鳩・軍犬・優先無線)火砲班(高射砲・山砲・機関銃) 馬事班(乗馬・駄馬・輓馬)
これら訓練のため、滑空機****初級用15台、中級用2台、上級用2台、飛行機3台
乗用馬頭、予備馬3頭、自動車3台(乗用1、荷物車2)サイドカー2台の設備を整えようとしたが、完備しないうちに終戦を迎えた。
なお、錬成場は終戦後、兵庫県立嬉野公民研修所に姿を変えるのである。
                   (第7章戦時下の教育 第2節軍事教育の強化)

*嬉野は通称。**戦時中のスローガン「八紘一宇」から命名

***中学校、高等女学校、実業学校など。****グライダーのこと。

(『兵庫県厚生文化施設便覧』兵庫県郷土宣揚協会,昭和18年・1943より)

さて、ここで上記の「設立趣旨」に注目してみたいと思います。(新字に改めています)

皇国の大道に則り青少年学徒に対し皇国民としての心身の錬成に努め国民的信念を振起し併せて国防訓練を施し以て皇国民の使命完遂に邁進せしめんとするにある。

 

ここに見られる「皇国民」「錬成」という言葉は、下記のように国民学校令」(昭和十六年三月一日勅令第百四十号)や「中等学校令」(昭和十八年一月二十一日勅令第三十六号)などの「目的」として掲げられた文中に見ることが出来ます。

『学制百年史』(文部省)によれば、「錬成」とは「錬磨育成」を意味する言葉で、「児童の陶冶性を出発点として皇国の道に則り児童の内面よりの力の限り即ち全能力を正しい目標に集中せしめて錬磨し、国民的性格を育成することである」とされています。
これらの用語は、まさに戦時体制における初等・中等教育の方向性を表すキーワードであったということができるでしょう。
 

国民学校令」
第一章 目的 第一条 国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ日的トス
「中等学校令」
第一条 中等学校ハ皇国ノ道ニ則リテ高等普通教育又ハ実業教育ヲ施シ国民ノ錬成ヲ為スヲ以テ目的トス

※太字は筆者

学徒錬成場における中学生の武道訓練
(ブログ「ふるさと加東の歴史再発見」より、後方は八紘寮の建物)

設立の目的に対して、実際のところはどうだったのでしょうか。
当市選出の県会議員・藤本百男氏がブログ「ふるさと加東の歴史再発見」がこの点について言及されていました。

「錬成計画」では、滑空部、馬事部、機甲部、通信部、火砲部の5部が置かれ、グライダーの操縦技術や乗馬法技術、自動車運転技術、通信技術、各種砲の操作技術の習得が内容となっていました。
しかし、戦争が激しくなるにつれ、軍用資材の不足など計画の実行に事欠く状況だったようです。
そして、18年の夏には、食糧増産に重点が置かれ、農耕訓練部が置かれて開墾作業が行われました。開墾作業のため動員された学徒の数は6760人、約1ヶ月で7町歩の開墾を完了したと記されています。
 (「嬉野台生涯教育センターの歴史を知る展示①グライダー滑空訓練」 2016年07月09日 )

女学生の国防訓練(上記ブログより)

「学徒の錬成」という理念は、大戦末期の物資・資源の不足ということから、なかなか本来の目的を果たせずに終わったようです。

そして、開所から2年余りが経った時点で、この施設は軍に明け渡されることになりました。

以下、「嬉野の今昔②」に続きます。