往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

相撲嫌いの訳は・・・

今泉諏訪神社子ども奉納相撲 写真はイメージです

 大相撲の初場所が始まっています。元々、スポーツには縁のない人間で、テレビ観戦もプロ野球オリックス)ぐらいで、サッカー、ゴルフなどよくテレビ中継があるのはもちろん知ってはいますが、まずルールを知らないので観ません。
  中でも、相撲については興味関心がないという言うより、子どもの頃のトラウマ(?)から、拒否感あるいは嫌悪感が強いというのが正直なところです。

 

近所に熊野神社(通称・権現さん)というたぶん江戸時代以来のお宮があり、我々の子ども時代は普段の遊び場でありました。

一昨年(2022年)は組長と、このお宮の当番があたり、例年7月の祇園さん祇園祭)の子ども相撲をどうするのかという話になりましたが、結局、子どもの数も少なく、子供会の役員さんの意向もあり、そして何よりコロナ禍の最中でもあったので中止となりました。

さて、この子ども相撲奉納相撲)については、嫌な思い出しかありません。
 私は元来が、背は高いものの手足が細くて筋力に乏しく、例えば懸垂なども鉄棒にぶら下がってばかりで、まともに出来なかった小学生でした。

この相撲(地元のお年寄りは「スモン」と発音)では、下級生と当たることもあり、それなりに筋力があり運動神経の良い子と対戦したりすると、情けないことにぶざまに投げられてしまうのです。

  もちろん、勝っても負けても幾ばくかのお金(地元では相撲の賽銭といって、事前に子どもたちが各戸を回って集金)は貰えるのですが、毎年のように学校で委員長とかなんとかしたりしていたので、近所の人たちの手前そういう場面は屈辱的でした。

これがいわゆるトラウマとなって、60年後の今に及ぶ「相撲嫌い」の原因となっていることに間違いはないでしょう。

  7月になると気が重く、激しい雨でも降って中止にならないかと思ったものでした。

(今から15~20年ほど前、私の子ども達の頃はまだまだ小学生も多く、また父親とは性格的にも違っていてか、全くいやがる様子はありませんでしたが・・・)

 

そんな訳で相撲の悪口ならいくらでも言えます。

そもそも国技とか言いながら外国人が多く、スポーツという割には、不自然な肥満から長生きする人も少なく、また何よりNHKしか放送しないところなどに、ずいぶんと違和感を覚えて数十年といったところです。

 

 

今日は「成人の日」ですが・・・

2024/1/8 Yahooニュースより

今朝は播磨内陸部の温暖な当地でも、外に停めている乗用車の屋根に、この冬初めてうっすらと白いものが見られました。

 

その昔、「成人の日」と言えば1月15日でしたが、いつ頃からか第2月曜になりました。調べるとWikipedia では2000年(平成12年)からとあります。
また、「成人」年齢も近年18歳に引き下げられ、各地の式典では「二十歳を祝う集い」とか「二十歳のつどい」などと名称も変更されています。
元日に起きた能登地方の大地震のこともあり、今年はマスコミの取り上げ方も控えめのように思います。

さて、我が家では8年ほど前に娘(元日に入籍)が成人式を迎えるにあたり、前の年の秋に着物のレンタル業者の「前撮り」とかいって、東京からそのために帰ってきたことを覚えています。

ところが、我々夫婦はどちらも成人式を経験しておりません。家内は盲腸かなんかで短期入院していたとか。

私はと言うと、当時は大学の冬休みが7日頃までで、授業が再開して1週間も経たずに帰省することになるので、他府県から来ていた学生たち(山口、岡山など近県は知りませんが)の多くは、成人式に帰らなかったのではないでしょうか。

そういう話題を聞いた記憶がありません。中には、一浪、二浪を経験したクラスメートもいたので、それもあったかも知れません。ちなみに親しくしていたH川君(広島市立の中学校長で退職)は、子供の頃の病気と一浪で、私より二つ上でした。(本人が話してくれたのは、卒業後のことで、ずっと一つ上だと思っていました・・・)

昭和50年(1976)山陽新幹線博多開業(ジャパンアーカイブズより)

私の場合は、二年生のとき(昭和51年・1976)に成人式を迎えたわけですが、前の年の秋に博多まで開通した山陽新幹線を利用すれば、姫路からのバスを合わせても4時間ほどで帰れるとはいうものの、往復に特急料金を払ってまで帰り、出席する気持ちはさらさらありませんでした。

 

それよりも、その2年ほど前の、いわゆる受験生のころ(1期校・2期校制の時代)を思い出すと、半世紀経った今では「また、なんでそんなことを考えていたのかな?」と我ながら変に思うのですが、「大学受験に失敗して、浪人を繰り返していると、成人式に出席したときに恥ずかしいな!」という思いがたまに心をかすめていました*1
言うまでもなく、成人式の出席はまったくの任意であるのに、元々の心配性の上に受験を控えて神経質になっていたものと思います。

私立1、国公立2校の計3校に出願していたのですが、滑り止めと思っていた県内のK学院法学部は当日発熱して欠席。
1期校の合格通知が来たのは3月16日。当然、2期校(23日が入試のK外国語大学英米語学科)も欠席。
結局、大学受験は1回きりという、当時でも珍しい受験生ではなかったかと思います。
これは決して自慢ではありませんが・・・・。

 

まあ、そんなことで、おそらく成人式ではスーツにネクタイという出で立ちになっているはずのところが、出なかったためにとうとう卒業式までネクタイを締めたことがありませんでした(笑)
いずれまた、触れるかも知れませんが、ネクタイをしめたことがないのに、3年4年と広島市内の繁華街にあった紳士洋服店のアルバイト(ワゴンセール)でネクタイを売ったことはありました(笑)

 

なお、毎年のように報じられる荒れる成人式のニュースを見聞きするたびに、こんなイベントに公費(税金)を使うのは無駄だというのが時論ではあります!

*1:;。;

「社小学校運動唱歌」を発見!

数年来、昔からの書類、冊子、領収書、パンフレット等々が乱雑に放置されている老父認知症が主因で要介護3(;。;))の座り机周辺を、年末から気が向いたら片付けていると、時々捨てるには惜しいものがあります。
今日たまたま見つけたのは、今から10年ほど前の80代の前半頃に開かれた小学校同窓会の名簿や当日配布資料でした。

その配付資料の中に見つけたのが「社小学校*運動唱歌」です。

昭和12年入学、18年3月卒業なので、入学時は「加東郡社町立社尋常小学校」卒業時は「同 社国民学校」となっていました。

教育史に長年興味があり、調子にのって2冊自費出版*している私ですが、「運動唱歌の名前に記憶はあるものの、楽譜を見るのは初めてでした。

*『「坊ちゃん」に見る明治の中学校あれこれ』『名作でたどる明治の教育あれこれ』(いずれもアマゾンで販売中)

さっそく、ネット検索してみると、「よっしーの畑」(https://hatake19982020.web.fc2.com/)というたぶん同じ兵庫県で淡路にお住まいの方のブログに「運動唱歌の記事がありました。
次のような説明があります。 なお、旋律は全く同じです。

兵庫県下の数多くの小学校で歌われていた運動唱歌です。曲(メロディ)は御影師範附属小学校で作られたようです。それぞれの小学校で、その地域(校区)らしい言葉を盛り込んで歌詞が作られました。運動会の行進曲として使われ、子ども達は歌いながら行進しました。」

次に「国立国会図書館デジタルコレクション」と「日本の論文」でも検索してみました。
「運動唱歌そのものを扱った論文は見つかりませんでしたが、国会図書館では堀清助 著『小学生徒運動唱歌法』(大辻文盛堂,明19.12.)が見つかりました。

以下に「運動唱歌」について言及した論文の一部抜粋してみましたが、この本はやはりその年に諸学校令を公布した初代文部大臣の森有礼の政策に沿ったものだったようです。

子供たちが組織的な行動ができるようになっている。学校教育は、唱歌による行進などを教え、国民に相応しい身体行動を育てていきます。
 この『 小学生徒運動唱歌』 は、「運動遊戯の間に之を和唱せしめ児童の悪習卑風を矯正するの材料に充てんとす」 との緒言からも読み取れるよう に、一八八七年に森有礼が提唱した兵式体操につらなるものです
  (大濱徹也「身体の近代史」『北の丸 : 国立公文書館報. (41)』国立公文書館、2008-12)

ただ、今回見つかった曲は明治のものではなく、「ドッジボール」の名称は大正末期からだそうなので、昭和に入ってから作られたものではないかと思っていましたが、加東市中央図書館で母校社小学校や近隣の小学校の百年史をパラパラめくっていると、大正時代半ば頃に在籍していた人の回想文中に「運動会の終わりに『運動唱歌』を歌いながら総行進した」という記述を複数見つけました。

「昭和に入ってから~」はどうも誤りのようです。大正時代から各小学校で運動唱歌は作られており、その後歌詞に若干の手直しがあったものと見られます。

 

「運動」唱歌ですから、歌詞のほうも「運動場 遊ばまし」(2番)、「山に登らん 野辺に遊ばん」(3番)「ドッジボールにかけくらべ 縄跳び鬼ごと」(6番)などと「運動・遊技」に関連する語彙が見られるのは当然ですが、次のように地元の地理歴史関連の文言がみられるのも特徴的です。

「御霊の森 千鳥川」(1番)「(赤穂)義士の話 観音寺(墓所)」(4番)「五峰山」(6番)
そして、終盤は本来の唱歌」的(修身科と連動した題材)な文言で締めくくってあり、近隣の他の小学校の歌詞も、ここは共通したものになっています。
「磨かば光る玉剣」(7番)「知識を磨き身を修め」「御国とためとつくす」(8番)

旋律については、どこかで聴いたか見かけた気がしますが、今のところ思い出せません。ただ言えることは、1拍が「付点8分音符+16分音符」で表され、飛び跳ねているような感じを与える、いわゆる「ピョンコ節」(「鉄道唱歌」がその典型)であり、たしかに歌詞は少し難しいですが、小学生にとっても自然で覚えやすい歌ではあったことでしょう。

今日の「往事茫々」はブログ子みずからのものではなく、3月に93になる老父のそれになってしまいました・・・・

中山義秀『厚物咲』に描かれた「心身を病んだ明治の苦学生」から・・・・

中山義秀(ぎしゅう)の短編小説。『文学界』1938年(昭和13)4月号に掲載、同年9月、小山書店刊の同名の短編集に収録。吝嗇(りんしょく)で守銭奴である片野老人は、片意地に生きたすえ、陋屋(ろうおく)に縊(くび)れ死ぬが、その足下には片意地の咲かせたみごとな菊の厚物咲が横たわっていた。この片野の数奇な運命をその老友瀬谷が物語る。ここに人間の奇怪な業(ごう)が描写されている。「老人が敗残の人生に耐え、居直つて、菊花に化身してみせるところに、独特の哲学」(瀬沼茂樹)、芸術が認められる。第7回芥川(あくたがわ)賞受賞。[山崎一穎]

初版本

作品の内容は、このブログが詳しいです。

はてなブログ「書にいたる病」

rukoo.hatenablog.com

正月も三日目。年末に一年ぶりに帰省していた娘も、朝早く暗い中を家人が福知山線新三田駅まで送っていきました。
 午前中、年末の図書館開館最終日に借りた『芥川賞全集 2』(1982・文芸春秋)の中から、タイトルの作品を読んでみました。
 別のブログ「小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ」 https://sf63fs.hatenadiary.jp/の材料探しをしていて、長谷健『あさくさの子供』(第9回芥川賞)はどうかなと借り出していた本ですが、どうも素材としては適切でないと放置していたものです。
この『厚物咲』(初めは意味不明でした)は、何時頃からか作品名だけは知っていましたが、読むのは今回が初めてです。

主な登場人物の二人は幕末に生まれたという設定ですから、70歳とは言っても令和の今から見ると、80代半ばの感じではないかと思うのですが、例によって主要なストーリーとかテーマなどにはあまり関係のないところに目がとまり、関連した思い出がよみがえってきました。

 

以下が目にとまった箇所です。

瀬谷という今は路地で代書人(現在の司法書士行政書士)を細々と営む老人は、若い頃東京で代言人(弁護士)の書生として住み込み、身体をこわしてまで弁護士試験をめざして苦学した数年間の生活がありました。

 

過労が瀬谷をおとろえさせた。そのため彼は女性に無関心であることができた。彼の顔の皮膚は灰のように濁っていた。眼は飛び出して鋭かった。頭髪は抜け落ち、地肌が白くすいて見えた。一度二度三度と弁護士試験の数を空しく重ねてゆくにしたがって、彼にとり試験は業苦に近いものとなった。恐怖と不安のため彼は受験場では全くの痴呆者だった。日々暗誦しつづけた条文の一行すら思い出すことができなかった。彼は脂汗をたらして時間一杯を最後まで苦しみ、とうとう白紙を出した。そして外見だけは昂然と場外まで歩いて来て不意にばったりと倒れた。

 

苦学生と、今では死語になった若者の、心身ともに病んだ悲惨な状況が描かれています。明治・大正の東京には程度の差こそあれ、無数の若者が心身を蝕まれたり、夢破れたりした末にやむなく帰郷したり、都会の片隅に埋もれていったことでしょう。

 

さて、思い出したのは大学時代3、4年生の頃だったでしょうか。昭和51、2年(1976、1977)の頃のことです。
九月の前期試験。下宿では暑すぎて勉強する気になれず、土日も開いている大学図書館(わが教育学部の隣にありました)の広い閲覧室(?)で付け焼き刃の勉強をしたことが何度かありました。

移転前の広大図書館(黄色の矢印、正面は前回も取り上げた理学部一号館)
ブログ「移転前の広島大学」より

よく見かける真面目そうな(昔の広大は世間からそういうイメージでよく見られていましたね)男子学生の横を通り過ぎがてら、ふと広げてあるノートに目をやると、そこに意味不明の直線や曲線、円などがボールペンで書き殴ってあるのが眼に入りました。(別に新しいボールペンの書き味を試している風ではありません・・・)
机上の書物がわかれば、何が目的の勉強かがわかったでしょうが、確かめる余裕はありませんでした。

当時の広島大学政経学部(後に法と経済に分離)という国立には珍しい名前の学部が本部キャンパスにありました。

この人は政経学部の学生か院生で、司法試験や国家公務員上級職(当時)をめざしていて、作中の人物と同じく気の毒にも心を病んだ人(昔はノイローゼと言いました)なのかなと、そのときは思ったものでした。

 

国木田独歩『忘れ得ぬ人々』という名短編がありますが、ほんの一瞬ちらっと見ただけのその人物のことが40数年経った今、上の部分を読んだときに思い出されてきました。

タイトル変更です😣

元のブログ「坊っちゃんに見る明治の中学校あれこれ」の記事を、2020年12月から3年と一月更新できておりません。(記事を元にした同タイトルの本を電子書籍、PODの本、ともにアマゾンで販売しております(^0^))

元のブログに興味を持っていただいた方には大変申し訳ないのですが、同じタイトルでこれ以上の記事は無理と判断して、勝手ながら2024年から「往事茫々」に変更しました。悪しからず、ご了承ください。

なお、元ブログの記事は削除しておりませんので、閲覧は可能となっております。

古希近い暇なおじんが、○○ないうちに折に触れていろんな想い出を書き留めておこうという意図ですので、ご笑覧いただければ幸いと存じます。

 

昨年末にうれしいニュースが!

「広島大学旧理学部1号館」を新たな平和拠点として活用(HOME広島ホームテレビ) - Yahoo!ニュース

思い出3つ

1 、ちょうど50年前、下宿探しに行ったとき、風もないのに外壁の赤レンガがポロポロと剥落してた。

2 、教職科目の「青年心理学」の授業がたった一度だけ、この建物内の大講義室であった。外観から想像できるが、薄暗い廊下だった。

3 、半年入っていたソフトボール同好会では、部室がないので隣接する2号館の裏庭のプレハブで朝早く更衣していた。

隣に夥しい数のカエルを飼育している施設があった。理学部生物学教室はカエルの研究で有名だと後に知った。