往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ54 明治16年の大干ばつ②

8月
2日 総集会 「番水之法」(1)を起こし、約十日間樋を止めることに決める。
以後、村民の中には「百般之紛議」を生じた。
4日 夜に山国・東実・松尾の三か村で熊野神社境内にて「盆踊ヲ以(テ)雨ヲ祈ル」
10日 総集会 議論百出するが、「自然説ニ決ス」(池の水を今あるだけ使い切り、後は降雨を待つ)
17日 総集会 大祖父池(王子ケ池)は残り二日、口ノ森池は残り一両日の見込み
今後の「水ならし」につき、委員を選挙。
19日 夜、好雨あり。

王子ケ池(2024年8月8日撮影)

20日 雨祝トシテ一日休業、此時神酒一斗五升ヲ以(テ)村民等熊野神社前ニ宴ヲ開(キ)共(ニ)其(ノ)歓心ヲ表ス。【七月以降八月十九日迄凡(ソ)五十日間雨気ヲ断チ炎暑最(モ)酷シ。病人ハ希(まれ)ナリ。不幸中ノ幸(イ)カ】
其(ノ)後又々大旱、一喜ノ下ニ一懼ヲ生(ジ)、一般拠(よりどころ)ヲ失ヒ啻(ただ)黙然タリ。

24日 大祖父池(王子ケ池)、新原田池、底水を抜く。
26日 新原田池落ちきる。
27日 大祖父池(王子ケ池)落ちきる。
  此夜ハ実ニ人間落命ノ時、親戚之ヲ憂(フ)の情況ニ同(ジ)ク啻(ただ)寂寥タリ

続いて、この間の状況が述べられています。

三度目の番水が実施したが、七分には通じたが、残り三分には水が廻らず。
そこで小田村の丸尾池や奥新池の水残りの三分の田に給水した。
(中略)古原田池の底水を入札により売却(其の値米二石五升)と決定。其の他の池においても同様の処置。

9月

九月ニ入ルモ秋暑強ク猶寒暖計九拾度(3)余、而シテ雨気又ナシ。稲ノ葉ハ赤クナリ恰(モ)打藁ノ如シ。

為ニ出穂ノナリカタキ所モ凡(ソ)壱町五反余、其(ノ)他多少ノ旱害ハ枚挙ニ暇アラズ。諺(ことわざ)ニ云フ米一升水一升トハ是レ此ノ時ナリ。男女ヲ論ゼス老若不問各自飲用ノ井戸ヲカエ(4)近田ヘ荷ヒ運ブアリ。或ハ小堀ヲカエ其(ノ)水ヲ運ブアリ。
嗚呼(ああ)本村ノ如キハ地形高クシテ井ヲ開堀セントスルモ数間(5)ノ深サヲ堀ラザレバ水ヲ得ル能ハズ。仮令(たとい)費ヲ厭(いと)ハザルモ其(ノ)水ヲ以為メニ得ル所ノ収利ニ比スレバ其(ノ)得失相償ハザルヲ如何セン。実ニ困難ノ邑(むら)ナリ。

12日  夜、好雨アリ。(凡ソ一寸五分位アル)
13日 雨祝トシテ一日休業、其(ノ)歓喜譬(たと)フルニ物ナシ。
19日 夜好雨アリ。前日ノ雨ニ近キヲ以(テ)稲葉色モ稍(やや)本色を帯(ブル)也。略(ほぼ)収穫ノ多寡ヲ予定スルノ便リヲ得タリ。
21日 郡長河合半介殿(6)県令ノ命ヲ奉ジ旱害巡視アリ。(此時郡長奉呈スル書面ハ本村四方百三町七反歩之内、一町貳反五畝歩皆無、四町一反五歩五分以上、損毛之分七拾八町八反歩、五歩以下損毛見込之分十九町五反四畝歩全熟穂之見込)

 

(注)
1 中世以降、渇水時に行われた灌漑 (かんがい) 用水の配分制度。順番を決めて田畑に水を引く方法。
2  ひっそりとしてもの寂しいさま。
3 明治 ・ 大正 ・ 昭和初期ぐらいまで、気温を現在の「摂氏」(℃)ではなく、主に「華氏」(「℉」)で表した。 華氏90度は摂氏でおよそ32.2度になる。
140年後の現在、9月の気温としてはけっして高くはない。
4 井戸の水をくみ上げ、田ヘ運び注水すること。
5 1間は約1.8メートル

6 河合半介(天保12~明治43年・1841~1910)旧加東郡河合村の生まれ)明治12年(1879)から5年間加東郡長、後に兵庫県議会議員)

依然として、一喜一憂の日々が続いています。郡長への報告はかなり深刻な被害に見えますが、前に取り上げた昭和14年のそれに比べると、下のグラフのようにまだマシであったようです。

     旱魃被害予想報告の比較 明治16年昭和14年

数値の単位は「町」(ヘクタール)