一 旱魃世話係の話では、山国村のような所では、長らく樋を止めて田んぼが「白割」(1)になってしまうよりは、用水を少しずつでも流す方が得策である。
一 字安が口の附近は、其の後「番水」によって半分程水を流したが、到底それでは足らず、その困難な状況を総集会に訴え出た。協議の結果、大祖父池(王子ケ池)から、八月十六日朝より昼まで流し入れた。(約一町五、六反程)
ところが、その後中尾池から古原田池へ落とした頃から、以前大丈夫と見込んだ大祖父池(王子ケ池)であったが、逆に口ノ森池よりも「弱い」ということで、結局は原田池の水を大祖父池(王子ケ池)へ流し込み、先に安が口方面へ流した水の代わりに充てると決めたが、同月十九日に「好雨」があった。そのために、実行には移さなかった。
一 今年旱魃ニ而掛ル人足凡(ソ)五百人。雨乞会同ニ費セシ人足凡(ソ)五百人。自分ニテ費セシ人足凡(ソ)一千五百人、莫大ナリト云(フ)ベシ。是ヲ以(テ)仮リニ平年池普請ノ料ニ充ツルトセバ又難事トスルニ足ラズ。無事ノ年柄深ク鑿ミサル可カラズ。
一 下リ藤ハ植付後六月二十日頃ノ好雨ニテ一時殆ンド満水セルヲ以(テ)常ニ独立ノ姿、田主小前(2)ノ集会ハ枚挙ニ遑(いとま)ナシ。却而(かえりて)外掛ヨリ多キナリ。九月十一日落チ切リ、十二日好雨アリ。旱害ノ憂(イ)ナク全ク熟ス。(皆掛ノ説ニ養水ハ切流シニ優ルモノナシ。一遍ノ水ヲ以テ二度切流シ二度ノ水ヲ以テ三度半切流シ継続セバ第一ノ徳也)
一 中稲(3)ノ用水必用ノ時ハ二百十日ノ二十日前ヨリナリ。所謂(いわゆる)穂拵(ほごしらえ)(4)ノ水也。草稲(5)ノ時余程割レテモ穂拵ノ水サエアレバ不構(かまわず)ト見認ト者多シ。
右、本年未曾有ノ旱魃ニ付関係者連署シテ概略ヲ記(シ)置(ク)也。
紀元二千五百四拾三年
明治十六年未九月
播磨国加東郡山国村
受持用係(5) 坂田直次郎
池番普請方兼旱魃掛 宮野弥三郎
井上槌蔵
藤本喜重郎
稲岡仁兵衛
北谷四郎左衛門
菅井与三郎
大祖父池水入 石井清三郎
稲岡常三郎
口ノ森池水入 石田佐吉
下り藤池水入 龍田伊七郎
「旱魃景況記」の最後の部分に述べられているのは、以下のような事柄です。
・樋を止めるよりも、「切流し」のほうが良いという説
・字安が口附近への送水により、予想以上に大祖父池(王子ケ池)の水が減った
・旱魃対策関連に要した人足のべ数
・下り藤池掛の田は例外的に「全熟」であったこと
・中稲では穂ごしらえ時に水があれば大丈夫 等々
(注)
1 田んぼの土が乾き切って白くなり、亀裂が入った状態。
2 地主と小作。
3 なかて。稲の品種のうち早稲(わせ)と晩稲(おくて)の中間に当たるもの。
4 稲の幼穂形成期のこと。
5 穂が出ていない状態の稲。
6 現在の区長に当たる。
『論集 東播磨研究(4)加古川流域の百花斉放』(東播磨地域調査学会、1989年)に、「史料紹介」(吉田麦城)として、この記録が紹介されています。
その中で「3 山国の溜池について」の文章中に以下の記述があり、興味深く読みました。
(前略)池数から見て奥新池は新築造したのではなく、水溜池的なものを、修理拡張したしたものとも考えられる。新原田池はいまでは古原田池との間の堤が消えて、ほとんど一つの池となりつつあるが、すでに明治十六年の『旱魃景況記』に記載されているので、幕末頃に作られたものか。