一 (農業用水)
村方ハ溜池係リニ而御座候、溜池年々土砂埋リ旱損所而御座候
但井堰ケ所多御座候得共、小谷流之井堰ニ而、池水落切候得ハ井水共ニ渇水致シ旱損仕候
惣而田送片サガリニ而水引畦作高ク、溜池ヨリ年末之田場ハ溝筋遠ク用水難届キ、堀井出水カヘ水無御座旱損所而御座候且又洪水之節ハ小谷川端ニ而田畑川除井堰損シ申候
(当村の農業用水は溜池からの給水よるものでございますが、その溜池は年々土砂が堆積しており、旱害の起きやすい所でございます。川に井堰は多くございますが、小さな谷川の井堰で、溜池の水がなくなってしまえば渇水状態となり、旱害が生じてしまいます。総じて田への送水は「片サガリニ而水引畦作高ク」、溜池から遠い田へは水路も長く用水が届きがたく、掘った井戸や湧き水「カヘ水」がないために旱害の起きやすいのです。その上に、洪水のときには小さな谷川沿いにあるため、田畑、堤防、井堰に被害が生じます)
一 (戸数)
百姓家百弐拾六軒 内 百廿拾軒 高持百姓(1)
弐軒 水呑(2)
弐軒 寺(3)
但他領地内二家居無御座候、此内弐軒ハ東野広沢新開場ヘ出家仕罷在候一 (人口)
村惣人数五百六拾七人 内 弐百八拾八人 男
弐百七拾八人 女
壱人 出家一 牛馬数 四拾匹 内 三拾九匹 牛 一匹 馬
一 (農閑余業)
百姓農業之間外稼無御座候、作方一通りニ而御座候、但農業之間ニ道法三里御座候所より薪買運申候、筵縄た□り夜中ニ仕候、女ハ給物藁雑子之拵ヘ着料之も綿抔仕候
(百姓たちが農業以外に行っている仕事は特にございません。「作方一通り」でございます。ただ、農作業の合間に距離にして3里離れた所から薪を買って村まで運んでいます。筵や縄ないなどは夜分にいたしており、女たちは「給物藁雑子之拵ヘ着料之も綿抔」いたしております)
戸数126軒というのは、三草藩領内最大で、そのうち「水呑」が2軒しかないというのは他村に比べて一戸あたりの耕作面積が大きく、自立した農民が多かったことを示しています。
寺が2軒と記載され、注3のように社に現在もある持宝院の末寺で「安楽寺東之坊」と同「西之坊」(無住)があったとされています。
この二つは「但寺建長五間横三間」(東之坊、9m×5.4m)、「寺建長五間横四間」(「西之坊」、9m×7.2m)という大きさから、お寺と言うよりはお堂ないしは庵と呼ぶ方がふさわしいような建物ものだったのではないのでしょうか。
「東之坊」には「出家」が一人居たようですが、「男女人数」とは区別されているところは違和感を感じます。
これらのお寺(お堂?)については、明治43年(1910)の地図にも、『加東郡誌』(大正12年・1923)にも記載がありません。推測ですが、明治初年の廃仏毀釈で無くなったのではないでしょうか。
なお、現在山国には大椿山妙仙寺(曹洞宗)がありますが、この寺院は三草藩主丹羽家の菩提寺で、この「明細書上帳」が提出された6年後の寛延元年(1748)に丹羽家の転領に伴い当村に移転してきました。
農耕用の牛の数が39匹となっています。これは戸数に対して3割強の数値ですが、「三草藩村明細帳」に記載されている藩領の一覧表を見ると、比較的高い数値になっています。
他の村々はおよそ2割程度が多く、小さな村においては一割台の所もあります。やはり当村の平均耕作面積が大きかったことによるのではないでしょうか。
馬については、農耕用と言うより、物資の運搬用に使用されたのではないかと思われます。
ちなみに、稲作農業において本格的な機械化が進行するのは、昭和30年代前半頃からで、昭和30年生まれの筆者が小学校に上がる頃までは我が家でも祖父が牛を飼っていました。ただ、当時は既に耕運機が導入されていましたので、副業として肉牛の肥育を行っていたようです。
「農閑余業」としては、特記すべきものはないと記されています。
他の村々と同様に男たちは、農作業の合間に遠くの山まで薪を採りに行き、女たちは栽培した綿花から木綿を織り、着る物も自給自足の生活をしていました。
三草藩領の中でも、多可郡(現在の西脇市及び多可町)あたりでは、耕地が狭く、余業として紙すき、織物(播州織)、釣針製造、高野豆腐製造などの行われていたことが各村々からの明細帳に記載されています。
なお、「道法三里御座候所」とは、当時26ケ村の入会地であった三草山のことを指していると思われます。片道約12キロもの道のりを薪を運んでいました。
(注)
1 高持百姓とは土地を所有し、それによって生活を維持する者
2 自分の田畑を持たず、検地帳に登録されない小作・日雇いなどの下層農民。
3「明細書上帳」の中に、村内の神社、お堂、寺院についての記載がある。
「高野山宝城院院末寺社村慈眼寺持宝院末寺 安楽寺真言宗東之坊 御年貢他村支配 但寺建長五間横三間」
「同寺同宗 西之坊 右同断」
4 明治初年,1868年の神仏分離令の実施などによりおこった寺院・仏像・仏具などの破壊運動。平田派国学者や,従来僧侶に圧倒されて不満を持っていた神官らが先頭に立ち,旧弊打破の風潮と結びついて全国的に極端な廃仏運動が展開された。
(山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」)