往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ27「村明細帳」にみる18世紀中頃の山国村⑥

今回は年貢の運搬(津出し)についての記述からです。

 

一 御年貢津出し之儀ハ八木重三郎様御下同郡大門村川舟場迄壱里、大門村より高砂迄川路七里、高砂より海上え船に積(み)大坂迄海路弐拾里
(年貢の川港までの陸送については、旗本八木重三郎様の領地である大門村まで約4キロメートル、大門村から高砂まで川舟で約28キロメートル、高砂からは海上輸送の船で大坂迄約80キロメートル)

加古川筋の主な津出し場 「三草藩村明細帳」より)

一 御年貢米俵入五斗 但込米(1)壱升五合宛
但御米壱石ニ三升つつ余米相添(2)此外銀入用かかり申候
右ハ京江戸大坂御蔵納ニ付如此

 

一 五里外御運賃として川路壱里ニ弐合つつ三里分御米壱石ニ付六合ハ御公儀様より被下候、当村より川舟場江壱里此駄賃壱石ニ付弐升之積、川路高砂迄七里此舟賃壱石ニ付弐升弐合之積、〆四升弐合之内五里外賃六合つつ被下置候、残ル分百姓より申し申候

 

一 高砂二而蔵敷米壱石ニ五合蔵出し入三合元船江積候、瀬取舟賃沖積三合此外行賃庄屋賃銀送用百姓より出し申候

年貢米の輸送について、当村の場合は最も近くに川港(舟着き場)のある大門村(現・加東市大門)まで約4キロを陸送し、そこから高砂までは高瀬舟で運び、高砂で積み替えた後は大坂へと送られていました。
5里(約20キロメートル)までの運賃は村が負担し、それを超えた分については「御公儀様」より、一石につき6合下しおかれたということのようです。
(それ以降の舟賃の記述についてはよくわかりません)

明治の頃まで運行された高瀬舟(「あえたかひとのブログ」
五斗入りの俵を60~80積んだと言われています。

一 田作稲之名 早稲 白川・白ちこ・阿かた
        中稲 長者・こちこ
        晩稲 源六・おちこ

 

一 畑作物 茶圓 雑子 木綿 蕎麦 稗 麦ハ近き畑ニ作り申候

 

一 種子籾壱反歩ニ付四升より六升まで

江戸時代・元禄の頃のもみすり (農林水産省ホームページ)

江戸時代は稲の品種改良がさかんに行われ、それぞれの土地に最適な品種が求められたと言われています。

社町史 第2巻本編2』の第4章「近世社の産業と生活」では、享保7年(1722)から安政3年(1856)までの約130年間に、町域で早稲・中稲・晩稲併せて16の品種が確認できるとしています。
上記の中で、「白川」は三草藩領の他村にも見られますが、それ以外は当村独自の品種であったようです。
畑の作物では、麦以外では茶、稗、蕎麦、木綿が三草藩領の多くの村々に共通する作物であったようです。
いわゆる商品作物については、18世紀中頃のこの時期には未だその栽培は行われておらず、この頃の木綿は自家用に作られていたようです。

菜種については、他村の例を見ると本格的に栽培されるのは19世紀以降のようで、幕末から明治にかけても盛んに栽培した村がありました。(前掲『社町史』)

 

(注)    
  1 込米(コミマイ)江戸時代の租法。年貢米を納入して計量するとき減量がないように補充した米
 2 代官所の経費として管内村々に課されたもの。関東では、年貢米3斗7升につき口米1升余り、関西では年貢米1石につき口米3升という規準でした