往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ26「村明細帳」にみる18世紀中頃の山国村 ⑤

続いて、村内の神社お堂についての記載。

 

一 当村社堂御除地(1)御検地帳ニ御書記御座候通
熊野権現境内御除地三反歩  村支配
 但宮建四尺四方 但拝殿舞台有
 同社附御除地下々畑壱反六歩

 

賀茂大明神境内御除地六反九畝九歩 村支配
 但宮建四尺横三尺八寸

修理の時に創建時の棟札が見つかり、寛永2年(1625)と記されていました。

 

薬師堂(2)境内御除地壱町六反弐畝歩 村支配
 但堂建弐間弐尺横弐間

 

観音堂境内御除地六畝弐歩 村支配
   但堂建弐間半四方
   同堂附御除地下々田拾弐歩

 

十王堂(3)境内御除地拾六歩 村支配
   但堂建弐間七尺横弐間四尺

 

観音堂 左奥に見えるのコンクリート造りの建物が八坂神社で、 石灯籠には天保11年(1840)とあり、村明細帳作成時には創建されていなかったようです。

高野山宝城院末寺社村慈眼寺持宝院末寺
一 安楽寺真言宗東之坊(4) 御年貢他村支配
 但寺建長五間横三間

一 同寺同宗 西之坊 右同断
   但寺建長五間横四間 当分無住

 

次に内容は、当村の地理的な状況報告になります。

 

一 村方ハ野山方ニ而地形郡中ニ而高キ所ニ御座候ゆへ大風之節損亡強く御座候、惣田畑片さかり(下がり)ニて畔岸たかく、土目ハ白土赤ねばニ而隣村(に)すくれ土性悪敷(悪しく)麦作出来不申作食不自由ニ而困窮所ニ御座候、屎草無御座候両作干鰯(5)作りニ仕候処、近年干鰯之祢(値)以前下直成節とハ十倍も高直故、次第ニ作も劣り申候、薪木不自由ニ御座候

(当村は野山がちで郡内でも標高が高く、台風などの被害を受けやすい。総じて田畑は傾斜地にあって畔が高く、土壌の性質としては赤土で粘性強く、他村に比して土質悪く麦作りができないような困った村です。肥料にする山の下草がなく、もっぱら干鰯を使用しているが、近年は最も安いときに比べその値が十倍にも高騰しているため、収穫も劣ってきている。また薪も不自由な村です)

一 当国ハ山かち成国ニ而御座候、尤海辺ハ打開き賑々敷所も御座候、此辺は海へ遠く万事不自由成所ニ御座候、国境ハ南は明石所海東美嚢郡赤松峠播州境まで五里北ハ当郡多田越峠丹波国境迄四里西ハ佐用郡美作国境迄廿里並備前国境三石峠迄拾六里と承候ヘ共遠方故境目之品訳委存不申候

(当播磨国は山がちの国です。もっとも海沿いには開けて賑わっている所もあります。このあたりは海には遠くなにかと不自由な所です。国境、南は明石〈海峡〉、東は美嚢郡の赤松峠まで5里、北は本郡の多田越峠の丹波との国境まで四里、西は佐用郡美作国との境迄二十里、備前国との境三石峠まで16里と聞いておりますが、遠方のこと故詳しくは存じません)

一 当村より諸方江道法
 大坂江 拾六里  京江 弐拾壱里  姫路江 七里  明石江 九里
 宍粟江 拾壱里  粟賀(6)江  小野江 弐里  高砂江 七里
 龍野江 拾壱里  赤穂江 拾五里  林田江 拾弐里  三ケ月江 拾六里
 摂州兵庫江 拾壱里  同国三田江 七里  丹州笹山江 八里

一 村方諸用相達候所ハ社村江拾壱町北条江四里

村の地勢について記している村明細帳は少ないようです。


加東郡内の村々(山国・山口・下小田・下三草・上久米・貞守)では、いずれも肥料として干鰯を使っていることが報告されていますが、北部の多可郡では、干鰯は少なく、「野土」「山の下草」「刈草」などが報告されています。また、肥料の干鰯の高騰ぶりを記しているのは、「三草藩村明細帳」では当村だけです。
宝塚市史 二巻』には以下の記述があり、明細帳の提出された頃は、広くあちこちの村々で問題化しており、寛保3年(1743)には、摂津・河内の200か村余りが肥料価格の引き下げを町奉行所に求めたという記録もあります。
    

享保年間(一七一六~三五)以後干鰯漁場の全国的不漁と、紀伊・和泉・播磨や兵庫方面に地方干鰯屋が出現したことによって、大阪への干鰯の回着量が減少した。この事情が大阪干鰯屋の内紛を誘発して干鰯はいよいよ高騰した

 

 

「村明細帳」にはそれぞれの村から主な町への距離が必ず記されています。

当村の場合、宍粟(山崎)から三ケ月(現・佐用町三日月)まで、高砂を除き当時藩が置かれた地名を挙げているのが特徴的です。

村役人の手元には、主な町への里程を記した書物があったのでしょうか。

買い物などの「諸用」を「達」する町としては、社村北条加西市北条町)が挙げられています。
距離的には小野のほうが近いのですが、当時北条は町場を形成していたものと見られます。

なお、三草藩領のうち加西郡多可郡の村々では、この「諸用相達候所」として、社町(やしろまち)と北条を挙げているところが目立っています。

どちらも生活に必要な物品を扱う商店が揃っていたのでしょう。

 

(注)
1  除地(じょち)=江戸時代,幕府・藩などの領主から租税を免除された土地。〈よけち〉とも。一般に寺社の境内地や特別の由緒あるものの所持地など。
2 不詳 明治43年の地図にも記載なし。

3 『加東郡誌』(1923年)には、所在地「山國字馬場」、現在は「妙仙寺境内に合祀」とあります。

4 これらのお寺(堂)については、本ブログ7月19日の記事でも取り上げています。
 https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2024/07/19/172743

5  鰯〔いわし〕から油をしぼりとったものを乾燥させた魚肥。
6  現在の神崎郡神河町粟賀