今から280年あまり前の寛保3年(1743)から明治4年(1871)の廃藩置県に至るまでの約130年の間、山国村は現在の加東市上三草に陣屋を置いた三草藩の領地でした。
同藩は越後国高柳から移ってきた1万石の譜代大名です。
それ以前の領主は以下の通りです。
(鎌倉時代から南北朝時代 播磨国加東郡福田保(石清水八幡宮の所領)の一村
・慶長5(1600))~元和3(1617) 姫路藩52万石 池田(輝政)氏領
・元和3(1617) 幕府領
・正徳3年(1713) 下野烏山(しもつけからすやま)藩3万石稲垣氏領
・享保7年(1722) 幕府領
ちなみに、日本史の専門家によると、「○○藩」という呼び方は明治以降のもので、それ以前は「○○△△守様御領分」と言ったそうで、当地の場合は例えば「丹羽長門守様御領分 加東郡山國村」となります。(△△守の部分は当主により変わります)
手元に脇坂俊夫編『三草藩村明細帳』(1972年)という古本があります。これは三草藩の領地であった村々のうち27ケ村から提出された「明細帳」をまとめたもので、当村のものは、ときの年寄・庄屋各2名が連署して藩の役所に提出しており、「明細書上帳」と題されています。
この村明細帳(むらめいさいちょう)というのは、江戸時代、領主・代官の交代などの時、村役人が石高・家数・人数・寺社などの村状を記し、藩庁に提出した帳簿で、今風に言うなら「村勢要覧」とか「村勢一覧」とでもいうべきものです。
編者の脇坂氏は西脇・多可地域を中心とした郷土史の第一人者で、亡父とは旧制中学の同級生であったようです。
今回から、順を追って内容を見ていくことにしたいと思います。
※漢数字は壱を一、弐を二など読みやすく改め、( )内には意味を記しました。
■ 村の石高(村高)
一 高(村全体の石高) 九百三十三石八升二合
此訳(その内訳)
分米(1) 二百十五石八斗六升一合
上田十三町四反九畝四歩 石盛(2)一石六斗
分米二百二十四石二斗一合
中田十六町一畝十三歩 石盛一石四斗
分米二百二十四石三斗四合
下田十八町三反五畝二十六歩 石盛一石二斗
分米二百二十四石三斗四合
下々田十五町七反八畝八歩 石盛九斗
分米十一石八斗三升七合
上畑一町四反七畝二十九歩 石盛八斗
内分米二石九斗一升三合
三反六畝十二歩 畑田
是(これ)ハ三十九年以前宝永元(1704)申年稲垣対馬守様(3)御知行所之節畑田成(なり)
分米十五石二斗七升九合
中畑二町一反八畝八歩 石盛七斗
内分米四石九斗三升
七反二十三歩 畑田是ハ右同断(右に同じ)
北播磨の四郡(多可・加東・加西・美嚢)にまたがる三草藩領の32の村々のうち、当山国村は戸数・村高ともにずば抜けて多かったようです。
藩の石高が一万石ですから、約9%つまり一割近くをも占めていたということになります。
「天保郷帳」(てんぽうごうちょう4)によれば、北播磨四郡の各郡ごとの平均村高は次のようでした。
ここに挙がった数値からも、山国村の大きさが分かります。
・加東郡(現・加東市及び小野市)村数152 石高平均369.666石
・加西郡(現・加西市及び西脇市、多可町の一部)村数123 石高平均317.716石
・多可郡(現・西脇市及び多可町) 村数124 石高平均275.328石
・美嚢郡(現・三木市)村数157 石高平均281.188石
なお、「明細書上帳」が提出される約100年前の正保三年(1646)にまとめられた「播磨之国知行高辻郷帳」では、下のように村の石高は「705石8斗5升6合」と記されており、この間の230石近くもの増加は新田開発によるものなのでしょうか。未だ勉強不足で・・・・。
正保三年(1646)「播磨之国知行高辻郷帳」(「兵庫県史」資料編・近世1 より)
(注)
町(ちょう)・・・ 1町は10反、すなわち100畝、または3000歩とされ、約9,900㎡
反(たん)・・・ 1反は10畝、つまり300歩であり、約990㎡
畝(せ)・・・ 1畝は30歩、すなわち約99㎡
歩(ぶ)・・・ 基本的な面積の単位で、一般的には約3.3㎡
1 江戸時代に領主が農村支配にあたって使用した用語。内容は石高(こくだか)と同じ。一村のなかで、田畑の上・中・下の品等に応じて、その土地の公定収穫高を表すときに「分米 ○石○斗○升○合」と称した。その数値は、その田畑の広さに、石盛(こくもり)(田畑の上・中・下の品等に比例して定められる一反についての公定収穫高)を乗じて求められた。 小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」
2 太閤(たいこう)検地以降、検地によって耕地や屋敷を上・中・下・下々の四等級に分け、それぞれの等級に応じて公定された反当たりの標準収穫量。石高の算出や年貢賦課の基準ともなった。斗代(とだい)。(出典 「デジタル大辞泉」)
3 稲垣重富、江戸中期の下野烏山藩主。三河生。稲垣重昭長男。幼名は大蔵。従五位下和泉守に叙任され、のち対馬守に改める。宝永7年(1710)歿、38才。
三草藩領の前は短期間、下野烏山(しもつけからすやま)藩(譜代、3万石)の飛び地であったようです。
4 江戸幕府の命で天保年間(1831~1845)に作成された郷帳。郡別の村々の生産高が記載されている。