往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ6 嬉野の今昔②

■ 戦時中の嬉野② Yashiro Airfild?  これは飛行場か?!

 

同級生の宮田君が言ったのは、この写真のことでした。

ホームページ 「旧海軍の基地と施設」より「社基地」 https://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/A033_Yashiro.html

昭和20年(1945)の1月15日、米軍は偵察機を飛ばして、兵庫県と四国の一部にある軍事施設や航空基地を撮影していました。その際に報告された概要は以下の通り。

社airfield 戦闘機用飛行場 北緯34度55分 東経134度59分
社飛行場は神戸市の北西およそ20マイル、社市*の東南1マイルの所にある。その飛行場には、北北西から南南東に走る3000メートル**の舗装された滑走路がある。 

*「社町」の誤り **フィートの誤り 900メートル余り

飛行場(滑空場付近)の図に『社町史』の執筆者が解説を加えたもの

ただし、機体らしきものが確認できず、6つの建物群があったというのは、西側にあった前回の記事でとりあげた嬉野学徒錬成場のそれだと思われます。

開所から2年を経過した嬉野学徒錬成場でしたが、終戦間近い昭和20年の6月に、施設を滋賀海軍航空隊伊吹部隊に明け渡しました。

滋賀海軍航空隊は、大日本帝国海軍の部隊・教育機関の一つ。一挙に増加した海軍飛行予科練習生甲飛第13・14期の生徒を教育するため太平洋戦争中に新設された予科練教育航空隊であったが最終的には甲飛第16期生まで入隊した。滋賀県滋賀郡下阪本村本町(現在の滋賀県大津市滋賀里町)に所在した。
概要
滋賀海軍航空隊は日本海軍航空隊の中で航空専科に特化し既に下士官教育を受けた唯一の航空隊であり将来の海軍省予科練生の教育官になるエリートを輩出する為の教養実務訓練を身に付ける目的であったがマリアナ沖海戦の大敗北における戦局の悪化により海軍士官及びパイロット養成機関が短縮、 目的変更により最先端兵器を扱う特別攻撃隊に変わった。 先端兵器の使用で戦地に赴いた戦死者が約8割に昇った。戦死者が際立って多いのは昭和20年6月である。隊員達の多くは「滋賀海軍航空隊」を愛称で「滋賀空(しがくう)」と称した。
極秘基地であったために資料は極めて少ない。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E9%9A%8A

航空特攻要員として第1播磨特攻隊150人、第2播磨特攻隊150人の計300人が、特攻機「秋水」(陸軍と海軍が共同で開発を進めたロケット局地戦闘機で、ドイツ空軍のメッサーシュミット Me163の資料を基に設計を始めたが、試作機で終わった)の要員としての訓練を、嬉野学徒錬成場の「滑空場」で行ったとされています。

秋水(読売新聞オンライン)

上記の部隊はわずか2ヶ月しか駐屯しなかったために、当然のことながら当時の写真などはありません。

 

下は嬉野学徒錬成場における高等女学校生のグラーダー訓練の様子を写した珍しいものです。(ブログ「ふるさと加東の歴史再発見」より)

「秋水」 はまだ開発段階であり、実戦機も訓練機もない状況で終戦を迎えておりますので、本基地が仮に一般に言われているような 「秋水 」搭乗要員用であったとしても、せいぜいが滑空機による初歩的な飛行・着陸訓練が行われていた程度に過ぎなかったであろうことは容易に想像されます。(ホームページ 「旧海軍の基地と施設」より「社基地」)

 

地元で「嬉野飛行場」と呼ばれることもあったこの滑空場において、昭和19年・20年頃に旧制中学の上級生であった方の中には、グライダーの滑空訓練のことを懐かしく話す人がいました。(残念ながらもうほとんど鬼籍に入られてはいますが)
また、筆者のお世話になっている理髪店のご主人は今年90歳の現役のお方ですが、小学生の頃に見た滑空訓練の様子を克明に語ってくださったことがありました。
さらに余談ですが、上記の滋賀航空隊伊吹部隊の軍医であったのは、赤ん坊の頃から30年あまりお世話になった故吉川友彦医師であったというのを『社町史』で知りました。

 

いずれにしても、米軍もよほど慌てていたのでしょうか、社(嬉野)「airfield 戦闘機用飛行場」なるものは存在しなかったのでした。

 

最後に終戦後10年を経過した昭和30年頃の嬉野の様子を写した写真を一枚。

草や雑木はありますが、これは明らかに滑空場として整備した一帯ではないでしょうか。3人の男の子たちの動きと表情が平和を感じさせる貴重な一枚です。

昭和30年頃の嬉野(『北播磨今昔写真帖』より)

 

■ その後の嬉野 公民研修所から生涯教育センターへ

 

兵庫県立嬉野台生涯教育センター(以下、センター)の前史は、兵庫県立嬉野学
徒錬成場(昭和 17 年8月開校)、兵庫県立嬉野公民研修所(昭和 21 年3月改称)で
ある。昭和 54 年7月1日、兵庫県「学園都市」構想のもと東播磨内陸学園都市の中
心施設として、県下の生涯学習・生涯教育の中心となるセンター及び兵庫県立婦人
研修館が設置された。全国にさきがけ「生涯教育」の名称が付された施設である。
一般供用に先立ち本館や青年宿泊研修棟が新設され、同年7月 23 日供用開始とな
る。その後年次進行で新棟、野外活動場等を整備し、平成 21 年には婦人研修館が廃
止され、指定管理者として(財)兵庫県生きがい創造協会が指定された。平成 23 年、指定管理者は公益財団法人に移行した。
この間、昭和 61 年には来館者 100 万人、平成4年に 200 万人、平成 13 年に 300
万人、平成 21 年に 400 万人、平成 28 年に 500 万人を達成している。昭和 55 年に
は皇太子殿下・美智子妃殿下(当時)の行啓、昭和 63 年には浩宮親王殿下(当時)
御成りサマースクール視察の機会があった。令和元年には創立 40 周年記念式典が
挙行されている

(嬉野台生涯教育センター『事業概要令和3(2021)年度』)

 

「嬉野公民研修所」(『社町史 第2巻本編2』より)

嬉野台生涯教育センター(「兵庫県ホームページ」より)