往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラム14  「試験とカンニング」

 明治30年代は中学校教育の整備が進みました。
 中でも、明治34年(1901)3月の「中学校令施行規則」の制定によって、「課程の修了」、「卒業」が次のように定められました。

  各学年ノ課程ノ修了又ハ全学科ノ卒業ヲ認ムルニハ平素ノ学業及 試験ノ成績ヲ考査シテ之ヲ定ムベシ。
 試験ハ分テ学期試験学年試験トシ学期試験ハ第一学期及第二学期内ニ於 テ之ヲ行ヒ学年試験ハ学年末ニ於テ之ヲ行フベシ。
(「中学校令施行規則」第6章 第47条より)

 なお、各中学校とも内規によって、上記の他に「臨時試験」を設けているところが多くあったことを付け加えておきます。

  ■試験の日程(例)
    東京府立第一中学校 明治44年度第二学期試験

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 ※「英独」・・・当時、英語を選択している組とドイツ語を選択している組があった(桑原三二『旧制中学校の定期試験』中等教育史研究第1集 1984)

 一年生は9科目ですが、四年生は最も多く14科目もあります。
   1科目でも基準点に達しないと進級が認められなかったために、生徒たちにとって年間3回の定期試験は、心身共に大きな負担となっていました。

 ■試験の心得

 次に生徒心得の中の「試験」についての項目の一例を挙げてみましょう。

 

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長崎県立中学校猶興館「生徒心得其の他」、塚野克己『長崎の青春ー旧制中学校・高等女学校の生活誌』より)

 第八条には、「西洋紙」を用いる答案は「インキ」、「日本紙」を用いる答案は「墨」、「数学」の答案は「鉛筆」と筆記具の使い分けが指示されています。普段からそのようにしていたのでしょうか。「筆と墨」で答案を書くというのは、当時の生徒でもなかなか面倒だったのではないかと思われます。

 

石川啄木カンニング

 試験と言えば、古今東西カンニング」、「不正行為」がつきものです。
 各校の試験規則の中には、「不正のあった当該科目のみならず、全科目の無効」という厳格なものもありました。(昭和・平成の時代にも高校によってはありました。不合理ということで次第に改善されました)
 一般的には、「不正行為を行った当該科目を0点」とする処置が多かったようです。

 カンニングがその後の人生を大きく変えたのではないかと思われる文学者がいます。カンニングが原因で盛岡中学校を退学した石川啄木です。

 明治35年の秋、十七歳の啄木は十月二十七日付けで退学願を提出して、ゆきづまった中学生活を清算、文学をもって身を立てるという美名のもとに上京した。(中略)その直接の契機となったのは五年生の一学期末の試験に友人の狐崎嘉助と共謀してカンニングをはたらき、発覚して譴責(けんせき)、答案無効の処分を受けて落第必至となったためで、啄木はすでに四年生の学年末の試験にも不正行為をはたらいて譴責処分を受けていたので、この二回にわたるカンニング事件は著しく彼を窮地に追い込んだのである。

(『新潮文学アルバム6 石川啄木1984年)

  

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 故郷の渋民村では「神童」と言われた啄木でした。盛岡中学には128人中10番の成績で入学したのですが、次第に文学に傾倒して、学業はおろそかになっていきました。三年学年末は135人中の86番、四年学年末には119人中の83番という成績が残っています。

 

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(盛岡中学校の校会決議録ー現在の職員会議録。試験不正行為で答案無効・譴責処分を受けた生徒の中に石川一の名前があります。『新潮文学アルバム6 石川啄木』より)