往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ39 加古川筋百姓一揆と山国村

天保4年(1833)は前年に引き続き、全国的に大凶作の年で、播州地方でも田植え後の雨天続き、日照不足、さらには虫害などから、平年の半作以下の田も少なくなかったそうです。
加古川の商人たちが買い集めて高砂へ送ったために米価は高騰し、日々の食事にも事欠く貧しい農民層の間には、これら商人銀貸(金貸し)などへの憎悪の感情が高まっていきました。
同年9月12日の夕方、その二日前に加東郡の新町、社村付近のお堂や神社などに貼られていた「米を買い占め、川下げをしている者があり、稲荷野(1)で相談したいので参集願いたい」という旨の張り紙に呼応して、あちこちから人々が集まります。
集まった者たちの中からは、米商人などを罵る声が次々と上がり、見せしめのために多人数で押しかけ家宅を打ち壊そうではないかと過激な方向へと話はまとまっていきました。

最初に襲われたのは、川の東では新町村の仲買川西屋庄助宅でした。以下は播州村々百姓騒立手続之写」(谷川好一家文書)から該当部分を現代語に直したものです。

(どこの者か分からないが、竹の筒を吹き法螺貝のような音を立てながら)ほどなく新町村へと押し寄せ、道具がないので小屋を引き倒して中にあった農業用の道具などを持ち出し・・・新町村の仲買川西屋庄助宅へ手始めに押し寄せて、まず建具、敷物などは勿論、二階、土蔵の戸を打ち破り、箪笥長持から衣類・布団・刀・脇差・膳具などを取り出しては、持っている道具で打ち砕いたり、引き裂いたりして、家財道具一式、書物に至るまで散々に引き破ったり、焼き捨てたり、また井戸や便所に投げ込んだりした。

打ちこわしの想像図(昭島市ホームページより)

 

これ以後の一揆勢の進行経路は以下の図の通りです。

一揆勢進行経路 『小野市史第2巻』)

屋度村(現・加東市屋度)で眼科の医者で代官も務めた谷川良順宅を襲った一揆勢は、北上する集団と東条川沿いに東に進んだ集団とに分かれ、前者は山国村へと向かいました。

谷川家住宅(不動産会社ホームページより)



前出の播州村々百姓騒立手続之写」という古文書では次のように記されています。

従是貳手ニ分ル
丹羽長門守様御領分
同郡山國村
医師銀貸 坂田烏渓
同断   孫三郎
清水様(2)御領知
社村
呉服屋 武兵衛 
酒造   喜左衛門
右十三日初夜頃ヨリ酒食差出相詫候故左之村ヘ移ル

 

この部分を、『小野市史』では次のように解説しています。

屋度村から東条川に沿って東に進んだ一揆勢とは別に北に向かった一揆勢があった。彼らは丹羽長門守領分山国村の医師・銀貨坂田烏渓と銀貨孫三郎、さらに清水家領社村の呉服商武兵衛、酒造家喜左衛門の居宅に向かった。それらの家では十三日の宵から酒食を差し出して詫びをいれ、打ち壊しを免れたとされている。

『小野市史第2巻』

 

さて、ここで問題になるのは、山國村の坂田家は打ちこわしに遭ったのかどうかということです。

『小野市史第2巻』では、原文中の「右」を山國村・社村の4軒すべてを指すとしているのに対して、『社町史第二巻本編2』と『滝野町史』では、「右」を社村の2軒として、山國村の2軒は打ち壊しの被害に遭ったと記しています。

医家としての坂田家(3)はその後絶えてしまったようで、実際のところを確かめるすべはありませんが、何十何百という集団(人数は資料により区々)が村の中を、それも手に手に武器(とは言っても鎌、鍬、鋸、棒など)を持って押し寄せるというのは、村人たちにとっては未曾有の恐怖体験であったことでしょう。

 

(注)

1 加東市稲尾

2 御三卿のうち、清水徳川家

3 寛保2年(1742)に村役人から三草藩に提出した村明細帳には、職業別の報告のところに「医者壱人御座候」とありましたが、おそらくこの坂田烏渓という方のご先祖ではないでしょうか。
 また、江戸時代末期に全身麻酔による外科手術に成功したことで知られる華岡青洲の門下生の名簿(「花岡医塾門人録」)の中に、文化14年(1817)3月の入門者として「播州加東郡山國村 坂田早太」の名前があるそうです。

【参考】

加古川流域は天領・三卿領・旗本領、姫路・小野・三草・古河・忍・尼崎などの諸藩領に分かれ、複雑に入り組んでいた。1833年天保4)は凶作の年で、米の買占めがあり、同年秋には古米1石が銀115~116匁に高騰した。この時期に起こったのが加古川一揆である。9月12日の暮れ六ツ時に加東郡稲荷野に集合した群衆はまず新町(現加東市・旧滝野町)を襲い、以後加古川筋の富農・富商を次つぎに打ちこわした。南下した一揆勢は加古郡印南郡美嚢郡に至り13日夜に解散した。北上した一揆勢は西脇から黒田庄に進み、尼崎藩領では津万井村(現西脇市黒田庄町)の酒造家徳三郎・栄六郎・大門村(現西脇市黒田庄町)の林兵衛宅を打ちこわした。さらに丹波下谷へ越え、柏原藩兵に鎮められたのは15日であった。
  この間に襲われた村は78か村、家数161軒におよんだ。打ちこわしに遭った家は銀貸・問屋・酒造・干鰯屋などであった。(中略)
この一揆は富農・富商と中農・小農との階級的矛盾が拡大深刻化した時期にあたり、数万人の農民が参加した。1749年(寛延2)・1871年(明治4)の姫路藩一揆とともに播磨国の三大一揆の一つ。(Web版尼崎地域史事典『apedia』)