往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ41  地名と地形

■「山国」という地名(大字)のいわれ

山国はヤマクニと訓ず(=読む)。嬉野の西部山谷の間に発達せる大部落にして地勢一般に高く海抜最高129米(メートル)、最低70米の間にあり。実に本町部落中の最高地なりとす。これ古来山国の命名ありし所以(ゆえん)ならんか。(=これが山国と名付けられた理由であろうか)※新字、新仮名遣いに改めた。
  『加東郡誌』(加東郡教育会、1923年)第2篇町村・第2章社町・第1節大字名

広域地図(グーグルアース)

デジタル標高地形図(国土地理院



たしかに旧社町(その後の社小学校区)域においては、当地区は下記のように最も標高の高い地区ではありますが、「国」の由来が明らかにされておらず、どう見ても「こじつけ」の感は否めません。
研究者による14~15世紀の清水寺文書の調査によって、「山国」は当時の吉田本庄(旧東条町域)の名主(後の庄屋)(1)で当地区に名田(みょうでん)(2)を所有していた「山国貞守」なる人物名に由来するという説があるようです。

 

各地区の標高(中央値 「2018 標高海抜ナビ」より)

山国111.8m  ひろのが丘76.3m  社65.6m  東実64.3m  上中53.6m

松尾51.8m  家原50.0m  出水49.2m  田中46.5m  鳥居45.4m

窪田45.3m   西垂水44.1m  貝原42.2m  野村39.3m

田中地区より熊野神社遠望 「低位段丘」から「中位段丘」を望む

  

■ 段丘の「山国」

 

「今昔マップ」より「陰影起伏図」(右)

社町域の特徴的な地勢は河岸段丘(かがんだんきゅう)と呼ばれています。
河岸段丘とは、川が土地を削って形成された階段状の地形のことで、旧社町域の場合、50万年前から加古川の流れが東から西へと移動した過程で土地を削り取ってできたものだそうです。
山国地区の場合、県道85号神戸加東線よりも西側の住宅地(いわゆる下所:したじょ)や水田の広がる一帯は「中位段丘」ですが、旧公民館よりも東(いわゆる上所:うえじょ)の一帯は「高位段丘」に属します。

原田池近くから。西に向かうほど標高が低くなっているのが分かります。


原田池の東の坂を上ると、戦後の開拓地が広がっていますが、県道564号社厚利線(学園道路)の南側は、「高位段丘」よりもさらに一段上の「嬉野面」と呼ばれる段丘面になります。

高位段丘面から東の嬉野面を望む

標高は、最新の国土地理院の地図(電子国土web)によれば、地区東端の住宅地は約66メートル。旧公民館のあたりで約77メートル 東に向かうほど標高は高くなり、原田池附近で97メートル。さらに東進して旧東条町との境(兵庫教育大学入り口)附近では約136メートルにも達します。

 

(注)

1 中世の荘園公領の耕地を分割した名田(みようでん)(名)を占有し,それを単位として課せられる年貢・公事(くじ)等の納入責任を負った農業経営者
2 平安中期から中世全般にかけて国衙領、荘園の土地制度上の編成単位である名(みょう)に属する田地。

 

市内北東部の鴨川地区のように標高4~500メートルもの山はなく、台地上に雑木林や原野が広がっていると言った程度ですが、起伏の少ない土地に住んでいる人から見ると、「山がち」の村に見えたのでしょうか。

「低位段丘」面に展開する地区とはちがい、農地においても段差が大きく、農作業時における労力は大きく、またやや危険性を伴うのも当地区の地勢、地形によるものです。