今回は、妙仙寺二十五世・金岡俊隣和尚と二十六世・金岡梅友和尚の事績などにについてまとめてみました。
まず、『新修 加東郡誌』(1974年、加東郡教育委員会)の各節編第4章「加東の人物」をもとに、金岡俊隣和尚について。
・美嚢郡吉川村生まれ(現・三木市吉川町)
・13歳 現在の小野市西脇町にある大龍寺で得度。修行に励んだ後に遠く尾州(名古屋)、勢州(伊勢)などへ禅の師匠を求めて歴訪。
・安政の終わり頃 帰省
・慶応2年(1866)加西郡野条村(現・加西市野条町)の金剛寺に住職として入山。
学制発布による小学校開設にあたり教鞭を執る。この頃、山国の妙仙寺では既に開設されていた寺子屋をもとに、小学校「報国校」が設置され、山国・松尾地区の生徒を対象にしたが、まもなく福田地区に開設された「河東校」に統合された。
・明治7年(1874)加東郡山国村妙仙寺の住職となる。
荒廃状態にあった寺院修復のために尽力。その後、郡内各宗仏心協会会長の傍ら、学徳を慕って教えを請う者が昼夜を分かたず訪れ、其の数は加東郡はもちろん、加西、西脇、多可、美嚢の各地から、記録に残るだけでも千余名にも及んだ。
和尚は四書五経論語史記などに長じ、漢文を教えると共に、筆を執って書を教えた。
うすく濃く 色染め分けて さまざまに 咲き誇りけり 園のなでしここの歌には、現在に通じる「個に即した教育」の理念が読み込まれていると言って良い。
・大正12年(1923)住職を退く
・大正14年(1925)10月、89歳にて生涯を閉じる
在世中の詩歌、俳句などを昭和7年に遺弟金岡梅友が遺稿集を出版した。
続いて、二十六世・金岡梅友和尚の事績などを紹介します。
篠田皇民『自治団体之沿革 : 伝家之宝典』[兵庫県之部](東京都民新聞社地方自治調査会、1932)に和尚のプロフィールが紹介されています。.
現住職金岡梅友師は明治二十五年五月二十五日、名古屋市東春日井郡篠岡村に出生。夙に仏門に志し得度して大本山永平寺にて修行。後先住俊隣師の後を襲うて入山住職となる。学行共に傑出せる宗教界の奇才にして、寺院の経営、布教に熱心する傍ら、意を専ら社会事業に傾倒し、日曜学校(1)、託児所の経営、免囚保護事業(2)、仏教婦人会、青年団、大師戸主会、観音婦人会、夜学校、鐘ケ淵紡績高砂工場布教等多方面に関係し、昭和三年には融和事業(3)、同五年には救貧事業をはじめ、又大正十四年より掲示板伝道等を継続する等、日夜寧日なき活動を致されている。(新字体・新仮名遣いに改めています)
(注)
1 寺院において日曜日に地域の子どもたちを集め、宗教教育を行っていたもので、大正から昭和初年代にかけて各地で盛んに行われていた。
2 現在の保護司の活動に当たる。
3 明治時代から第二次世界大戦中にかけての日本における被差別部落の地位向上、環境改善のための事業。
多方面にわたる事業のうち、戦後の保育園経営につながる「託児所の経営」について、見ていくことにしましょう。
当初は、農業の繁忙期に一定期間のみ開設される「農繁託児所」として出発しました。
大正末~昭和初期、農繁期の労働力確保と幼児保育のために、季節託児所の開設が兵庫県下で奨励されていましたが、昭和2年(1927)の県令「兵庫県農繁託児所奨励規程」の制定公布以降は、小学校や寺院での開設が進み、昭和8年(1933)における兵庫県下の託児所数は745か所、受託児童数36,814人と開設数は全国で最も多かったとされています。
開設初年度の昭和2年(1927)においては、「託児期間:6月14日~7月1日、従事者:金岡勝子(夫人)、託児数:30人」という記録が残っています。(兵庫県保育所連盟『兵庫県保育所のあゆみ』1979)
戦前から戦中を経ての「農繁託児所」の経営は、下記のように戦後の保育所経営に発展していきました。
昭和26年3月 法人設立認可
同 4月 児童福祉法による保育所として定員45名の設置認可を受け、椿山保育園として発足。
同 33年9月 定員60名の変更認可
同 49年4月 定員90名の変更認可(以下略)
椿山保育園が発足してから、73年が経過しています。初めの頃に通った人たちは、80歳近くになるわけですね。
筆者は昭和34年から36年までお世話になりましたが、当時の園長は金岡俊英師でした。
お昼寝の場所が本堂で、ふと目を覚ますと天井などに仏教特有の怖い絵があったりしていたのを思い出します。どういうわけか、本年より評議員なるものに委嘱されてしまいました。