前回の水争いに続いて、今回は開墾地の権利と山野の入会権をめぐる争論について見ていくことにしたいと思います。(『社町史第二巻 本編2』)
延宝五年(1677)、社村を中心に周辺の検地が行われました。いわゆる延宝検地です。
このとき、新しく開墾された土地(1)をめぐって、それが社村、山国村のいずれに属するかという争論が生じました。
これと同時に、山国村の東部から東北部にかけて広がる東野の入会権(2)をめぐって、山国村・松尾村・東実村と社村・家原村・鳥井村(鳥居村)・田中村との間で争論が起こりました。
七か村の入会地争論について、山国村が「山国・東実・松尾の三か村の入会地」と主張したのに対して、社村は「社・家原・鳥居・田中・山国の五か村の入会地」であると主張しました。
そこで、姫路藩の検地役人が関係する村々の村役人を連れて京都町奉行所に赴き、上の二点について審理を求めました。
上の訴えに対して、ときの京都町奉行(西町奉行)の能勢頼宗は以下のように判決を下しました。
(1)新開地争論については、先年社村が山国村領内に新池(3)を作った際に、社村から山国村へ「池床借用証文」が差し出されており、社村がその土地を開墾したと言うのは不届きである。この土地は山国村のものであるから、以後手出しは無用である。
(2)七か村の東野入会地争論について、双方とも証拠を有しておらず、いずれの主張が正しいのかはっきりしない。そこで代官松村吉左衛門(山国村支配)と代官小野長左衛門(松尾村支配)が立会見分して入会を確定し、各村に申しつけよ。
上記(2)の裁許について、代官の下に双方の村役人が呼び出されて審理がおこなわれたものの、双方とも証拠不十分のため、「内済」(和解)を命じられています。
近隣の四か村の村役人が調停に乗り出し、問題の東野草場の六分半を山国・松尾・東実の入会、残り三分半を社・家原・鳥居・田中・山国の五か村の入会とする案を提示しましたが、双方が拒否する結果に。
その後、京都町奉行所が審理し、再度の「内済」(和解)が命じられ、結局は当初の案で成立することになりました。
元禄七年(1694)のことで、争論がおこってから17年もの年月が経過していました。
往時の村人たちは、入会地となっている山林においては、燃料となる薪や落葉などをかき集め、野原においては刈り敷き(4)・秣 (5 まぐさ) を刈り集めていました。
寛保2年(1742)の「明細書上帳」によれば、山国村の入会草刈り場は、上記の東野と「久米庄三草山」にあったようです。
三草山は、当時加東郡最大の入会山で、百か村余りの村々の入り会っていました。入会の村があまりに多く、江戸期末まで幾度にも渡って争論が繰り返されており、当然山国村もそれに関わらざるを得ませんでした。
「明細書上帳」では「加東郡村々餘多(あまた)入相二而・・・近年ハ薪屎草無数罷成候」とあり、既に18世紀の前半において山林資源の不足が認識されていたことが分かります。
(注)
1 古文書などには具体的な場所は示されていない。
2 一定の地域の住民が特定の森林、原野、漁場等を共同で利用する権利。
ここでは、村人たちの燃料となる薪、落葉や農耕の肥料や牛の餌となる下草などをとる権利をいう。
3 上猪ケ谷池と下猪ケ谷池のことか。山国村「明細書上帳」には「いか谷上之池」「いか谷下之池」と表記され、「社村用水池」と断り書きがされている
4 山野の草や柴 (しば) を刈り、田に緑肥として敷き込むこと。また、その草や柴。
5 牛馬の飼料となる刈草。