往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラム1 「運動会」

 運動会というのは、修学旅行と同じく、わが国独特の学校行事です。英語に訳すと、”Athletic Meets"というそうですが、筆者が二十代の頃に勤めていた学校で、アメリカ人の若い女性のALT(外国語指導助手)に、この言葉を伝えたところ、怪訝な顔をされたことを覚えています。おそらく彼女の出身校には、相当する行事がなかったのでしょう。
  わが国で最初の運動会は、明治七年(一八七四)に東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で行われた「競闘遊技」(Athletic Sports)でした。プログラムは、徒競走、幅跳びなどの競技的種目と、障害物競走や二人三脚などの娯楽的種目から構成されていました。
 明治十年代から二十年代に高等教育機関で行われた運動会のプログラム構成は、明治三十年代に本格的に実施されるようになる中学校の運動会のそれに、強い影響を与えていたようです。
 筆者の母校の前身、兵庫県立小野中学校は、明治三十八年(一九○五)五月に第一回の運動会を次のようなプログラムで実施しています。

1 徒歩競争(二百・三百・四百メートルの三種)
2 障碍物競争(網、梯子、袋、手櫂、鉄条網)
3 二人三脚  4 戴嚢 (袋競争のことか) 

5 速算競争
6 韓信股潜り   7 盲目玉拾い  8 各学校選手競争  

9  嚢脚 (余興)  10 竹馬競争  

11 フットボール  

12 人梯  13 撃剣土器割 14 幌競争  15 綱引  16 人車競争  

17 割木渡り  18 人馬競争 19 蛙飛び

 種目名からは、その内容が想像できないものが結構ありますが、19の種目のうち、2・3・4・6・19の5種目は、札幌農学校(現在の北海道大学)で明治十二年(一八七九)に行われた「遊戯会」のそれと一致しています。他の中学校のプログラムを参照しても、共通する種目が多いことが分かります。
 上の小野中学校の運動会は、日露戦争の真っ最中に行われたものでした。そうした時勢を反映したと思われるような種目が含まれています。12の「人梯」(「人梯子」とも言い、機材がない場合の障害物突破の方法の一つで、兵員自身を梯子に見立てる)がそれで、次の説明から、会場の興奮ぶりが想像されます。「二○三高地の戦い」を意識したものだったのでしょうか。 

  その方法はまず梁木をもって骨組みを作り、その下に生徒控所用の大型机を手がかけられぬように積み重ねて堡塁の形にし、梁木の上に三本の旗を立てる。競争者は正式に張った鉄条網を越え、人梯子を伝わって塁壁を上って旗を奪い取る。とくに鉄条網を越えるときの音がものすごく、見る者をして手に汗を握らしめる勇壮な競技であった。

 研究者によると、わが国の運動会は、英米の”Athletic Sports"の影響は受けてはいるものの、やはり”Undoukais"と呼ぶしかないような独特な性格をもっているということです。その特徴は次の三点にまとめることができます。
 ① 授業を中止して、一日をそれに当て、保護者や地域住民も参加して実施されているという点。
 ② 競争的種目だけでなく、娯楽的種目、さらにはデモンストレーション的種目を混合して行われている点。
 ③ 本質的にレクリエーション的な性格を有しており、いわば地域の「マツリ」的な行事になっている点。

 中学校が、地方にあっては最高学府であり、中学生もエリート視されていた明治の時代にあっては、生徒たちが繰り広げる豪壮勇健な演技や競争を観ることは、地域住民にとっては大きな楽しみの一つであったと思われます。
 日露戦争の頃から流行し始めた絵葉書の題材にも、運動会の写真がよく使われていることからも、そのことはよくうかがえます。(写真は明治44年静岡中学校の運動会の絵葉書、棒倒しの様子)

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