往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

1  「坊っちゃんの学校歴」 その1「ある私立の中学校」

     ある私立の中学校

 

    母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立(しゅったつ)するといい出した。おれはどうでもするが宜(よ)かろうと返事をした。(一)  
※本文は、岩波文庫による。岩波文庫は底本に『漱石全集』第二巻(岩波書店、一九八四年)を使用している。
引用文中の傍線はすべて筆者による。

  f:id:sf63fs:20190201105427j:plain

    坊っちゃんは、いつ、どこの中学校を卒業したのでしょうか。
 それを考えるためには、まず『坊っちゃん』という小説の「作中時間」、つまり時代背景を確認する必要があります。
 これについては、作中に「天麩羅事件を日露戦争のように触れちらかすんだろう。」(三)とか、「田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨(うま)い位である。」(十)とあったりすることなどから、日露戦争終結直後の明治三十八年(一九○五)九月頃とするのが定説となっているようです。
 そして、坊っちゃん自らが「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四カ月ですから。」(五)と述べているところがありますから、坊っちゃんは、明治十五年(一八八二年)の生まれと考えられます。 

    すると、尋常小学校四カ年、高等小学校四カ年を経て尋常中学校(途中から中学校と改称)に入学したのは明治三十年(一八九七)。五カ年の修学を終えて卒業したのは、明治三十五年(一九○二)ということになります。   
 次に、その中学校ですが、明治三十年当時、当時の東京府にあった中学校(正しくは尋常中学校)を『東京府学事第二十五年報』で調べてみると、次の通りになります。

公立(三校) 
  東京府尋常中学校

(後の府立一中、現在の都立日比谷高等学校)
  同 城北尋常中学校

(後の府立四中、現在の都立戸山高等学校)
  同 開成尋常中学校

(現在の私立開成中学校・高等学校)

私立(十四校)
1明治議会尋常中学校 2日本中学校 3商工中学校  4尋常中学素修学校   5錦城学校尋常中学 6独逸学協会学校尋常中学 7数学院尋常中学 

8尋常中学天求合社 9正則尋常中学校    10攻玉社 11麻布尋常中学校 12早稲田尋常中学校 13郁文館 14私立青山学院中学部 

(うち4・8は「休校」と記載されています)

 坊っちゃんの通信簿』(村木晃、大修館、二○一六年)では、その「私立の中学校」は、明治二十六年(一八九三)に創設され、当時神田猿楽町二番地にあった前記7の「数学院尋常中学」をモデルにしたのではないかと推測しています。
 理由として、まず、同校の創立者数学教育の先駆者であった上野清(嘉永七年~大正十三年、一八五四~一九二四)であること、そして漱石の卒業した錦華小学校に近接していたことが挙げられています。  
 同校は後に東京中学校と改称され、さらに戦後の学制改革東京高等学校となりました。各界で活躍された著名な卒業生として、次のような方々のお名前があります。
 

嶋田繁太郎(明治十六~昭和五十一年:一八八三~一九六、海軍大臣軍令部総長)   
山本有三(明治二十~昭和四十九年:一八八七~一九七四、作家)  
佐野洋(昭和三~平成二十三年:一九二八~二○一一、推理作家、評論家)
芦田淳(昭和五年~平成三十年:一九三○~二○一八、ファッションデザイナー) 
牧伸二(昭和九~平成二十五年:一九三四~二○一三、漫談家
立川談志(昭和十一~平成二十三年:一九三六~二○一一、落語家) 

 さて、坊っちゃんは「卒業する」とあっさりと言ってのけていますが、彼が卒業したと仮定した明治三十五年(一九○二)、全国の公私立中学校の卒業者の合計が、一一,一七九人であったのに対して、半途退学者(中途退学者)は、それを上回る一六,○九九人にも上っています。(文部省『全国中学校に関する諸調査』文部省普通学務局、明治三十八年)
   この頃の中学校では、半途退学の比率が今では想像できないほど高く、「学力」・「体力」・「資力」の三つの条件が揃っていないと、五カ年の修学は難しかったと言われています。
 なお、卒業時期が、兄は「六月」、坊っちゃんは「四月」となっています。「あれっ!?卒業と言えば三月ではないのか」と疑問を持たれた方もおありでしょう。この点について少し補足をしておきたいと思います。
 まず、兄のほうからです。文中の「商業学校」についての岩波文庫の注釈を挙げておきます。

 官立の高等商業学校(一橋大学の前身)と考えられる。中学校と商業学校(甲種)は同格なのに、兄が弟より遅く、しかも六月卒業となってるからだが、明治三十五年当時では七月四日に高商の卒業式があった。

 明治の学制開始から、我が国では学年の始まりは、桜の咲く四月だろうと思い込んでいたのですが、そうではなかったようです。
 佐藤秀『学校ことはじめ事典』小学館、一九八七年)には、「日本でも、近代化のスタートを切った明治前半期では、大学をはじめ小学校まで九月学年始期が多かったのであり、帝国大学旧制高校ではなんと一九二○年(大正九年)まで九月始期だったのである。」とあります。
 一方、坊っちゃんの「四月」のほうですが、『東京府立第一中學校創立五十年史』(一九二九年)の「沿革略」を見ると、卒業証書授与の時期が当初の七月から四月、さらには三月と移行していることが分かります。
 この府立一中の前身である東京府第一中学正則科に入学したものの、二年ほどで中退した漱石の記憶の片隅に、「卒業=四月」というのがあったと考えることはできないでしょうか。